「今日は学校に行かずにサボろうか?」。あの日は、長崎市東古川町(現在の古川町)の自宅付近で、幼なじみ三人で朝から雑談していた。空襲警報が午前中のうちに解除されたら学校は休校。塹壕(ざんごう)掘りなどの作業が連日続き、休息したい気分だった。海星中学校の二年生、十四歳だった。
午前十一時ごろ。市内の上空をB29爆撃機が浦上方面から南へ飛んでいくのが見えた。肉眼で機影がはっきりと分かり、「えらい低う飛びよるな」と友人に声を掛けた。しばらくすると、爆撃機から投下された落下傘がふわふわ浦上方面へ流れていった。落下傘が金比羅山の陰で視界から消えた瞬間、青みがかった白い強烈な光に襲われた。
即座に、隣家の防空壕に飛び込んだ。同時に爆風に見舞われた。爆音もあったのだろうが、無我夢中で覚えていない。二、三分後に防空壕から周囲を見渡すと、砂煙で一メートル先も見えない状態。煙が晴れると、電線が落ち、家の屋根が吹き飛ぶなど町の変わり果てた姿があらわになった。
自宅には母と姉がいた。爆風で窓ガラスが割れ、柱に突き刺さっていたが、二人とも命に別条はなかった。位はいと仏像、預金通帳などを持って、寺町の山手に避難。上空に真っ黒なきのこ雲が立ち上っていた。家族三人とも、まさか新型爆弾とは思いもよらず、ぼうぜんとして巨大な雲を見つめていた。県庁方面で火の手が上がり、町は地獄絵図と化していた。
午後七時ごろ、近所の人が父が負傷したと知らせてくれた。事務員だった父は大波止付近の職場で被爆し、爆風で飛んできたコンクリートの窓枠が腰を直撃。同僚がリヤカーで自宅まで運んでくれた。家族四人で八幡町の寺院の裏手にあった防空壕に逃げ込み、一週間そこで過ごした。
八月十五日。二十人以上が避難していた防空壕で、終戦を告げる玉音放送を聞いた。「耐えがたきを耐え…」の部分だけ聞き取れたが、後は、電波の状態が悪くて聞こえなかった。周りの大人に尋ねると「戦争に負けたとげな」と返ってきた。心底ホッとしたのを覚えている。
<私の願い>
原子爆弾の被害は長崎で最後にしなければならない。地球上ではまだ戦争がなくならないが、早くこの世から爆弾や鉄砲などの武器がなくなればいいと思う。最近の若い人たちは、平和ぼけしていると思う。平和の意味をかみしめ、平和運動に取り組んでほしい。