県立水産学校(現在の県立長崎水産高)の一年生だった。松浦市の実家を離れ、長崎市土井首町にある学校の寄宿舎で生活していた。授業はなく、学徒動員のため茂木町の山間部(現在の田手原町付近)で連日、陣地構築の作業に駆り出されていた。
八月九日も、雑木林に囲まれた山頂でいつものように塹壕(ざんごう)掘り。上空に二機の飛行機が現れたので作業の手を休め眺めていると、飛行機から二個の落下傘が投下され、その下に黒いものが一つぶら下がっているのが見えた。
そして、ピカッと大きな稲妻のような閃光(せんこう)。「何だろう。写真を撮ったのかな」と仲間と話したその瞬間、ドーンとごう音が響き、台風並みの爆風が襲ってきた。
全員が大慌てで雑木林に身を潜め、大木の根元に抱きついて爆風が収まるのを待った。空には爆発当初、大型のキノコ雲が一点に盛り上がっていた。その後、入道雲に変わり、さらに瞬く間に空一面が真っ暗の乱層雲となって、今にも夕立がきそうな空模様になった。
軍部の指示で、その日の作業は中止。学校への帰路、県庁が炎に包まれているのが目に入った。思案橋付近では頭や顔、手足や服などが焼け、助けを求める人々の悲痛な声があちこちから聞こえてきた。しかし、市街地を避ける形で学校に戻ったため、その日は本当の原爆の惨事は確認できなかった。
市街地の実態を目の当たりにしたのは、学校の休校が決まり、自宅に戻るため長崎駅に向かった二十日。原爆投下から十日以上がたつのに、市街地には遺体の山が点々と積み上げられていた。遺体が腐った悪臭は強烈で、そのにおいは脳の中にへばりついたような気がした。
駅前広場で、半裸の女性が大声を出しながら踊っていたのが強く印象に残っている。二十代前半と思われるきれいな人だったが、原爆で身内を失ったショックで狂ってしまったのか、パンツ一枚で踊り回るその姿は哀れな光景だった。(松浦)
<私の願い>
原爆投下から五十八年。長崎市内の復興は素晴らしく、市街も再建されているが、五十八年前の出来事を思い出すと今も胸が痛む。二度と戦争は起こしてはいけないし、特に核兵器は二度と人類に使用してはならないと願っている。