あの日を振り返ると、なぜそうしたのか自分でも分からない行動や、ぽっかり記憶がない時間がある。それだけ、当時の精神状態は普通ではなかった。
十五歳だった私は、学徒動員で国鉄長崎駅(現在の長崎市尾上町、JR長崎駅)に働きに出ていた。一九四五年八月九日は、午前十時ごろ駅に到着した。しばらくして空襲警報のサイレンが鳴り、上司から「早く外へ出ろ」と言われ、事務所から慌てて飛び出した。
駅構内の防空ごうに向かおうとした時だった。一瞬、黄色い光線で包まれ何も見えなくなった。とっさに、駅長から聞いた広島に落ちた新型爆弾のことを思い出し、地面に伏せた。直後にものすごい爆風を浴び、辺りは真っ暗になった。
髪が焼けた程度で大きなけがはなく、夢中で防空ごうにたどり着いた。既に避難した人でいっぱいだった。中に一緒に働いていた友人がいて「顔がどうかなっとる?」と尋ねられた。友人の顔は火膨れになっていたが、私は「うん」と答えられなかった。
その後、近くの別の防空ごうに行ったが、そこも中は満杯。仕方なく外に立ち、夕方ごろ入れるようになった。やがて、駅で働いていた顔見知りの男性が腹部にひどいやけどをして運び込まれ、付き添って防空ごうで一夜を明かした。
十日にようやく、飽の浦の自宅に戻った。途中、飛行機が飛来する音を聞き、被爆後初めて恐怖を感じた。家族は無事だったが、私は死んだものと思っていたようだった。
十一日は、長与駅(現在の西彼長与町)近くに設けられていた国鉄関係のけが人の収容所に、手伝いに行くことになった。長崎駅を出発し、列車で通った浦上一帯は、川やあちこちの地面に遺体が折り重なり、ひどい様子だった。
爆心近くの駒場町(現在の松山町)にあった国鉄の官舎は、完全に焼けてなくなっていた。跡には横になったまま骨になった遺体があり、車中から白い線のように並んで見えたのが目に焼き付いている。被爆時寝ていた夜勤明けの職員だろうと思った。(大村)
<私の願い>
四十歳ごろからずっと病気がちで、家族にもがんが多い。原爆の影響ではないかと思うと、本当に世界は平和であってほしい。だが実際には、核の問題や戦争、犯罪は今もある。人類がある限り続くのだろうか。