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私の被爆ノート

おにぎり食べ「生」実感

2003年7月10日 掲載
林 敏枝(77) 林 敏枝さん(77) 爆心地から2.1キロの三菱兵器住吉寮で被爆 =南高南有馬町乙=

長崎青年師範学校の一年生だった。三菱兵器長崎製作所に動員され、住吉のトンネルにあった工場で、武器に使うシリンダーの検査係をしていた。あの日は夜勤明け。住吉神社近くの二階建ての寮に戻り、一階の部屋で一人仮眠を取っていた。発令されていた空襲警報も解除され、ほっとしていた。

「ドカーン」。寝入りばなの突然の大音響。恐る恐る見開いた目に空が飛び込んできた。寮の上部が丸ごと吹っ飛んでいた。気が付くと、ガラスの破片で少しけがをしていた。いつもは涼を求め窓際に寝るが、この日に限って、押し入れの前にいたのが幸いした。

隣の部屋では梁(はり)が落ち、一緒に働いていた人の上にのしかかっていた。おなかにたまった血で、どんどん体が膨れてくる。不謹慎だが、なぜか「赤い鏡もち」という言葉が脳裏に浮かんだ。この人もやはり亡くなったと後で聞いた。

救急袋と、寝るとき足に掛けていた布だけを手に、友人とはだしで外に飛び出し、トンネルに向かった。中には血だらけ、傷だらけの人、人、人。真夏の暑さの中で「寒い、寒い」とうめいていた。

「ここにいるわけにはいかない」。当てもなく歩き始めた。行き交う人の顔は、真っ黒に焼けて腫れ上がり、男女の区別もつかない。皆そんな姿だったから不思議と怖いとは思わなかった。持っていた布は、包帯代わりに途中で差し上げた。この日はどこに寝たのかも覚えていない。

翌日、先生と再会することができ、当時の国鉄道ノ尾駅まで歩いた。けが人がいっぱいで列車に乗ることができない。また長与の友人宅まで歩き、そこで下駄をもらった。その後、いったん諫早の学校に戻り、一泊して帰途へ就いた。

「足はあるとね」。家に戻った私に、驚いた顔で、母と四つ違いの姉が尋ねた。「見てみんね」。足を差し出した。ふと見ると、ずらりと並んだおにぎり。私を捜しに長崎に向かう準備をしていたらしい。とにかくおなかがすいていた。それを夢中でほお張り、生きていることを実感することができた。(口加)
<私の願い>
世界の動きを見ていると、私たちが言ってみても仕方ないと思うときさえある。しかし、こんな被害に遭うのは、私たちが最後になると信じたいし、そうなるように努力したい。この平和がずっと続いてほしい。

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