当時は西彼多以良村(現在の西彼大瀬戸町多以良内郷)に住んでいて、村立多以良小の五年生だった。父の仕事で外地(北京や上海)を転々としていたが、母と一緒に地元に戻っていた。
八月九日は、母と二人で船で長崎に向かった。大波止には午前十時半ごろ到着し、近くの旅館の階段を上っていたとき、窓の外がひときわ明るく光った。すぐに「ゴーッ」という音とともに爆風が押し寄せ、とっさに両手で目と耳をふさいでその場に伏せた。二階から「勇、伏せなさい」という母の声がかすかに聞こえた。
しばらくして母や旅館の人たちと県庁坂下の防空壕(ごう)へ逃げ出した。壕には心臓が見えるのではと思うほど胸の肉をえぐられた男性や、やけどを負った人などが運び込まれ、異様なにおいに包まれた。耐えきれず、一人で壕を出てぼんやり県庁を眺めていると、突然三階から火の手が上がり、すぐに全館に燃え広がった。巻き込まれる危険を感じ、母と私は知人のいる諫早へ向かった。
道端で拾ったリヤカーに荷物を載せ、母が引き私が後ろから押して歩きだした。出島町か築町に差し掛かったとき、どこからか「パタパタ」という音が聞こえた。顔を上げると前を歩く二人の男性のうち一人の背中が赤くただれ、皮膚がだらんと下がっていた。皮膚が風にあおられて体に当たる音だった。その時は何も感じなかったが、今でも覚えているのは幼い自分にとって印象が強かったのだろう。
日見峠に近づいたころ、雨が降りだした。空には黒と黄色が混じったような雲が広がり、黒い大粒の雨が降ってきた。雨は私の白いシャツに灰色の染みを作り、気味が悪かった。そのまま歩き続けて諫早に着いたのは翌朝。安心して全身から力が抜けた。
後になって被爆者手帳を申請するよう勧められたが、被爆を証明してくれる人を見つけることができなかった。風のうわさで、あの日一緒にいた旅館の娘さんも申請が認められていないと聞き、取得は困難だとあきらめた。
<私の願い>
戦争は一概に善悪で割り切れるものではない。軍備を持たずに平和を望んでも国際的には通用しないのではないか。真剣に国民を守ろうとするならば、日本も独自の軍を持たなくてはいけないと思う。