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私の被爆ノート

信じたかった姉の生存

2003年6月27日 掲載
開 稔(74) 開 稔さん(74) 爆心地から2キロの西北町の自宅で被爆 =長崎市西北町=

当時わたしは十六歳で、大村の飛行機工場で働いていた。その日は夜勤明けで西北町の自宅で寝ていた。急に目の前が光ったかと思うと爆風が起こり、振動で寝ていた床が抜け床下に落ちた。真っ暗な中をやっとの思いで床下からはい出てみると、家は焼け落ちる寸前だった。

しばらくは家が焼けるのをぼうぜんと見ていた。浦上方面は黒煙に包まれ、その上の方には炎が上がっている。農作業に出ていた母を思い出し、われに返った。母は無事で弟と祖父も裏山に逃げ込んで難を逃れた。時が過ぎるにつれ、生き残った人たちが林や山の中へ避難を始めた。

三菱造船所の大橋工場に勤めている姉が夕方になっても帰ってこない。心配になり、母と捜しに行った。道の途中、あちこちで馬車を引いたまま倒れた馬や負傷者を見た。助けを求める者、やけどをして皮膚がぼろぼろになり「水を、水を」と泣き叫ぶ者…。川沿いには水を求めて来た焼け焦げた死体が至る所に黒山のごとく重なり合っていた。辺りが暗くなり、あきらめて引き返す。その夜は杉山の中で寝た。

翌日からまた姉を捜しに出た。「負傷者が貨物列車で諫早や大村の病院に運ばれている」というのを聞き負傷者とともに、すし詰め状態の列車に乗り諫早まで行った。駅のホームでは、まるで魚を陳列するように大人も子どもも、ごろごろと並べて寝かされていた。みんな傷の痛みでうめき泣き叫んでいる。大村の救護所でも同じ状況だった。しらみつぶしに捜したが、とうとう姉は見つからなかった。

八月十五日、空から「日本敗北」のビラがまかれた。周りのみんなは「だまされるな」と口をそろえて言っていた。わたしもそう思っていた。その後、姉の職場から連絡があった。祈りむなしく、姉は死体で見つかった。
<私の願い>
被爆した庭のカキの木は元気に育っており、自然の偉大さに圧倒される。戦争は、人と人が殺し合い無差別な死を強いる最も最低な行為。過去の戦争を教訓に、子どもたちのため平和教育を徹底していかなければならない。

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