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私の被爆ノート

父と姉の死 母は放心状態

2003年6月19日 掲載
榊 安彦(66) 榊 安彦さん(66) 爆心地から1.5キロの長崎市家野町の自宅で被爆 =長崎市泉1丁目=

自宅の縁側で兄と兄の友人が将棋を指しているのを、私の友人と並んで見ていた。原爆が落ちた瞬間、爆風で吹き飛ばされ、気が付くと顔と右腕をけがし、庭先で倒れていた。兄は無事だったが、隣にいた私の友人は全身大やけどで間もなく亡くなり、兄の友人は崩れた家の壁に埋もれていたところを助けられた。

私たちは最初、母に連れられて近くの墓地に逃げ、それから防空壕(ごう)に行った。壕には自宅近くの路上で被爆し、大やけどを負った姉がいた。夜、姉はすぐ上の姉に背負われて救援列車に乗り、車中で息を引き取った。翌日、私と母も列車で諫早に向かった。だが、そこでは満足な治療を受けることができず、行方が分からない父のことが心配だったのでその翌日、再び長崎に戻ることにした。

道ノ尾駅で列車を降り、母に背負われ自宅へ戻っている途中、知り合いに会った。一足先に列車に乗った姉と、行方不明だった父が亡くなり、既に埋葬されたと聞かされた。父を頼りにしていた母は、放心状態になって座り込んでしまった。

父は当時、茂里町の三菱長崎製鋼所の鋳造工場に勤務し、あの日は浦上川対岸の竹の久保町で防空壕を掘っていたそうだ。一緒にいたおじの話によると、空襲警報がいったん解除になったことから父は工場に戻り、そこで原爆にあったらしい。その後、兄たちが鎮西学院の裏にあった畑から父の遺体をリヤカーで運んできた。後頭部に鉄骨が当たったような大きなけががあり、それが致命傷になったようだった。服が泥と水にまみれていた。自力で浦上川を泳いで渡り、畑までたどり着いて亡くなったのだろう。

母の話によると、父は長崎市内で空襲が頻繁になってきたころから不測の事態に備え、腹巻きの中に三千円の札束を入れて持ち歩いていたそうだ。だが、父の遺体が見つかったとき、そのお金と父が大切にしていた高価な懐中時計がなくなっていたとのことだ。あの惨禍の中で、死体をハイエナのようにあさり回っていたらしく、戦争や原爆は生き延びた人の心まで奪ってしまったようで悲しくなる。
<私の願い>
原爆を実際に体験していない若い人にとって、原爆の悲惨さは物語のようにしか思えないのではないか。核兵器は人間が造り出したものなので、絶対になくすことができるはず。すべての長崎の若者に平和を願う声を上げてほしい。

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