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私の被爆ノート

瞬間、背後から爆風

2003年6月12日 掲載
小野 和敏(65) 小野 和敏さん(65) 爆心地から3.4キロの長崎市飽の浦町の自宅で被爆 =長崎市入船町=

七月下旬に妹が生まれたばかりで、八月九日は産後で休んでいた母と一緒に飽の浦町の自宅にいた。昼前、自宅の前を車が走るような音がしたので、もしかしたら敵の飛行機かもしれないと外に出てみた。空に飛行機らしい光が見えたので、母に知らせようと玄関に入った瞬間、後ろから爆風に襲われた。目の前で畳が持ち上がり、窓ガラスが全部割れ、無事だった母の布団の中に潜り込んだ。

しばらくして布団からはい出すと、北の方角にきのこ雲が見えた。それからは茂里町の三菱長崎製鋼所に勤務していた母の弟を捜しに行った父を待つことにし、自宅から一歩も出ていない。稲佐山が防護壁の役割をしてくれたおかげで自宅の被害はガラスが割れた程度で、周りの家もほとんど無事だった。やけどがひどいとか、「水をください」と言う人たちがいるとうわさで聞いたが、実際に見ることはなかった。おじはやけどはなかったそうだが、崩れた建物の下敷きになり、結局病院で亡くなった。

終戦後、近くの三菱造船飽の浦寮が進駐軍の宿舎になるという話を聞き、八月二十日すぎに知人を頼って外海の黒崎に行くことになった。稲佐橋を渡って松山町の方へ歩いている途中、黒こげになった電車や長崎医科大の壊れた煙突、焼け残った電柱を見たが、逃げるのに一生懸命で、すごい爆弾が落ちたぐらいにしか思わなかった。大橋まで来たところで憲兵隊の検問があり、一人自宅に残っていた父が追い掛けてきて、結局引き返すことにした。

米軍人が寮に入ってからは、彼らと仲良くなった。私や友人はお湯を足にかけてやけどしたり、霜焼けになると、知り合いのMPを訪ねて身ぶり手ぶりで「ピカドン(原爆のこと)でけがをした」と言うと、軍医のところに連れて行ってくれた。そこで塗ってもらった軟こうはすごい効き目で、数日で治ってしまったのには驚いた。
<私の願い>
私にとって、あの戦争は”食べ物”の戦争だった。食べるものがなく、畑から野菜を盗む人も多かった。今の子供たちがあのころの食べ物を食べても、決して口に合わないだろう。安心して食事ができるような平和な時代が続いてほしい。

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