「丸々と太って立派な息子だが、今夜もつだろうか。かわいそうに」。長崎原爆の日から一夜明けた十日朝、早岐駅から病院まで担架で運んでくれた消防団員の話し声が耳に入った。このまま死ぬのか。涙が止めどなく流れた。いや、僕は死なない。死んではならない。家に帰り、母に会いたい。
当時十八歳。三菱長崎兵器製作所に入所し、働きながら学んでいた。あの日は大橋工場で魚雷の頭部を大型旋盤で削る作業をしていた。瞬間青いせん光が走り、前のめりに倒れて気を失った。気が付くと、どこかの芋畑に他の負傷者と横たわっていた。
家族の名前を叫ぶ人、苦痛にあえぐ人…。この世の生き地獄。僕も髪の毛は血と土でもみくちゃになり、耳や鼻も血でふさがっていた。ここにいても死を待つばかり。そう思い、負傷者を運ぶ汽車が通るという鉄道の線路を目指した。
広い道路を倒壊した家や遺体がふさいでいた。西浦上付近に着いたがそこも負傷者ばかり。一人の兵隊さんが水筒のふたで水をくれた。「もう一杯」。そう頼むと、兵隊さんから「もう一杯飲んだらおまえは死ぬぞ」としかられた。
汽車が来るのを待っていた午後九時か十時ごろだった。米軍の偵察機が飛来してきた。低空で飛び機銃掃射を浴びせた。「長崎の市民を一人残らず殺す気か」。その時の腹立たしい気持ちが今も心に強く残っている。
貨物列車に乗った。二歳ぐらいの女の子と乗り合わせた。全身にやけどを負い、失明していた。「お母さん、お母さん」と泣き手探りする様子を不憫(ふびん)に思い、抱きしめると眠ったように静かになった。しばらくすると、女の子は冷たくなっていた。
早岐の病院に終戦までいた。「動ける人は一日も早く出てほしい」と病院側から要請があり、古里の小長井を目指した。
深夜ようやく家に帰り着いた。母は恐る恐る僕に近づき、声を上げて抱きしめた。「長崎に捜しに行ったが、どうしても見付けられなかった」。母はそう言いながら、確かめるように何度も何度もなで回した。(諫早)
<私の願い>
真に世界平和を願うなら、核兵器は絶対につくるべきでない。核兵器がある限り世界の平和は訪れない。戦後半世紀以上が過ぎた今も原爆のために苦しむ人たちがおり、核のない世界の平和と安心して生活できる社会を願ってやまない。