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私の被爆ノート

出産後に絶命 今も目に

2003年5月29日 掲載
山口トシ子(76) 山口トシ子さん(76) 救護活動で被爆 =福江市武家屋敷2丁目=

当時十八歳。諫早市の実家で農業の手伝いをしていた。原爆が投下された八月九日、母と一緒に近くの畑で農作業をしていると、西の空に突然、太陽がかすんだような丸い明かりが見えた。そのときは「まるでおてんとさまが落ちたみたいだ。何だろうかね」と、母と顔を見合わせた程度だった。翌日、新型爆弾が長崎に落ちたことを知った。

十一日ごろ、地域の代表者らを通して、女子青年団に被爆者の救護をするように要請があった。実家がある集落からも私を含め十八歳から二十歳まで十二人の若い女性が、旧長田国民学校で救護活動に当たった。

旧国鉄の長田駅に、長崎から来た約二十両編成の貨物列車が到着。貨車にはむしろが敷かれ、一つの車両に五十人くらいの被爆者が横たわっていた。全車両におよそ千人がいたと思う。大やけどの重症の人が多かった。

女子青年団員は四人一組となり、担架代わりの戸板の上に四人ぐらいの被爆者を乗せて学校へ次々と運んだ。被爆者たちの姿は痛ましく、想像を絶していた。悲しむ暇はなく無我夢中で運んだ。

救護は木造二階建ての校舎内で行われた。全身やけどで息が絶え絶えの人や臨月を迎えた妊婦もいた。私たちは患者に飲料水を運んだり、やけどのかゆみを和らげるため手でさすったりした。有効な治療手段はない状態で、それが精いっぱいの手当てだった。うなされるようにして赤ちゃんを産んだ後、間もなく息を引き取った女性の姿は今でも目に焼き付いている。

救護活動は一週間で終わり、私は所用で長崎市内に出掛けた。一面焼け野原の風景を見て原爆のすさまじさをあらためて実感した。知人宅に向かう途中、日見トンネル付近で、市外方向に歩く被災者の長い行列を見た。被災者の一人に聞くと、島原の親類宅に行くと答えた。そのぼうぜんとした表情からは、原爆も戦争もこりごりとの思いが伝わった。(五島)
<私の願い>
原爆を直接受けた人の苦しみは言葉では言い表せない。イラク戦争で空爆に遭い大けがをした子どもの姿をテレビで見て、原爆の救護体験がよみがえった。今の若い人たちに、たとえ生活が苦しくても平和が一番いいことを知ってほしい。

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