機関士として、ようやく一人前の仕事ができるようになり始めたころだった。西彼多良見町の実家を離れ、十五歳から旧国鉄長崎機関区に勤務。当時、現在の長崎市尾上町付近の寮で暮らしていた。十九歳だった。
八月九日。午前六時半の長崎発佐世保行きの普通列車の乗務を担当。佐世保で折り返し、その日の午後一時には再び長崎に戻る予定だった。原爆が投下された午前十一時二分。大村湾を右手に見ながら、東彼川棚町辺りを通過中。長崎の惨状など知る由もなかった。
十一時半すぎ。大村駅に到着後、駅長から「長崎に新型爆弾が落ちたらしい」と聞かされた。「爆弾って何だ」と漠然と不安だけが募った。大村を出て諫早駅に停車すると、長崎方面からの列車と行き会った。窓ガラスはすべて割れ、木枠やドアがもげていた。背筋がぞっとした。
道ノ尾駅に入ったのが午後二時すぎ。ホームに入って、ぎょっとした。待合室周辺は顔が真っ黒に焼け、首筋の皮膚が垂れ下がった人たちであふれていた。群衆の中から男が「山中!」と駆け寄ってきたが、男が誰なのか判別できなかった。
長崎機関区の管理部(西彼長与町)から「負傷者を救援せよ」と指令を受けた。機関車を客車の後ろに付け、先頭車両で車掌が手旗を振って中心部に向かった。線路脇の道には、流血しながらはだしで歩く人たちが多くいた。「長崎はどうなっているのか…」。驚きで胸がいっぱいだった。
大橋町手前で停車、汽笛を二、三回鳴らした。付近の川にいた負傷者が音を聞き、続々と列車に乗り込んできた。百人は下らなかった。機関車の上から浦上方面を眺めると、一面焼け野原。あちこちから煙が上がっていた。三十分停車した後、海軍病院に向かうため諫早駅に引き返した。
諫早で乗務を交代。家族が待つ多良見町へ帰った。列車の中で無念さを残して息絶えた人、線路際の溝に山のように散乱した死体…。その光景が今も頭から離れない。
<私の願い>
核の恐ろしさを知っているのは広島、長崎の人たちだけ。核使用が悲惨な状況を生むという記憶を、若い人たちに引き継いでもらいたい。日本がたどってきた戦争の結末を見極め、平和の尊さを知ってほしい。