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私の被爆ノート

長姉の遺体見つけた父

2003年5月15日 掲載
久保 田鶴子(68) 久保 田鶴子さん(68) 爆心地から約3.2キロの桜庭場町で被爆 =佐世保市天神4丁目=

長崎市坂本町の実家が三菱兵器製作所(茂里町)に近く、空襲がひどくなったので私と妹は西彼時津村(当時)の母方の叔母の家に、姉二人と兄は両親とともに市内の桜馬場町の借家に疎開し、時々行き来していた。当時十一歳だった。

八月九日は桜馬場、時津のどちらにいたのか記憶が定かでないが、晴れで青空がきれいだった。朝から警戒警報が鳴っていたが庭で草むしりをしていた。すると突然白いせん光が走り「スーッ」とした爆風を感じた。小屋のそばのトイレの中へ逃げ込んでしばらくして外に出てみると、辺りに人の気配がなく静まり返り不気味だった。何が起きたのか分からなかった。

数日後の夜、母が「長女の行方が分からない。ここへ逃げてきてはいないか」と泣きながら叔母に話していたのを聞いた。その時初めて長崎に大きな爆弾が投下されたと分かった。

長女の姉は徴用され、竹の久保町の高台の鎮西学院内にあった三菱製鋼所で働いていた。遺体は一週間後に父と二番目の姉が発見した。爆風で建物とともに谷底へ吹き飛ばされていたが、焼けておらず着物の切れ端で識別できたという。

父が「澄子、澄子」と姉の名前を呼ぶと、鼻からぶくぶくと泡が出たらしい。今でもその出来事を不思議に思っている。母は長女を亡くしたことを嘆いて毎日泣いていた。

終戦の玉音放送は叔母の家で聞いた。叔母が泣いて仏壇に手を合わせていた。その後、母と妹と三人で歩いて道の尾まで行き、雨の降る中を人力車に揺られ浦上の焼け野原を通り、桜馬場町の借家まで帰った。

家のガラスは全部割れ、鏡台もひっくり返り、足の踏み場はなかった。玄関の格子戸もむちゃくちゃになり戸の開け閉めはできず、そのまま寝た。坂本町の実家の庭の防空壕(ごう)に隠していた茶わん類を掘り起こすと原爆のすさまじい熱線で表面がざらざらに変質していた。

戦後は生活に困り、母の着物を米やジャガイモに交換し、知り合いの田植えを手伝ったりして飢えをしのいだ。現在まで放射線の後遺症はないが、体の調子が悪いときは「もしや」という心配が常に頭から離れない。(佐世保)
<私の願い>
戦中、戦後の痛ましい体験は忘れられない。平和を願う被爆者として、イラク戦争に胸を痛め、無力さを感じている。だが、決してあきらめず世界から戦争がなくなることを願っている。

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