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私の被爆ノート

首などに無数のガラス片

2003年5月2日 掲載
桑原 久生(73) 桑原 久生さん(73) 爆心地から約1キロの長崎市油木町で被爆 =西彼三和町為石=

国民学校を卒業して間もなく徴用され、油木町にあった市立商業高内の三菱長崎兵器製作所仮設工場で魚雷を造っていた。十五歳だった。家族は為石村(現在の西彼三和町為石)に住んでいたが、わたしは寺町の三菱の寮で暮らしていた。

八月九日はいつものように窓際に立って作業をしていた。突然、窓の外が「カー」と光り、爆風が工場を襲った。わたしは割れたガラスを上半身に受けながら吹き飛ばされた。気付いたときには長袖の作業服は爆風で破れ、あらわになった首や背中にはガラスの破片が無数に突き刺さり血が止まらなかった。防空ごうへ急がなければと思い、拾った風呂敷を背中に当てて夢中で走った。

防空ごうは頭の皮がはがれている人、腹が破れ腸が出ている人などけが人や既に死んでいる人であふれていた。よほどのどが渇いたのか「おしっこでもよか、飲ませてくれ」と頼む人もおり、あまりの光景に絶句した。防空ごうの周りには商業高の生徒たちが真っ赤にただれた肌をさらしたまま死んでいた。暑さのため服を脱いで周辺を掃除していたという。防空ごうに入っていればと思うと無念だった。

その日の夜は道ノ尾駅から佐世保方面に貨物列車が出ていると聞き、線路を道ノ尾へ目指した。右の足の裏にもガラスが突き刺さっていたため思うように歩けなかったが必死だった。米軍が度々照明弾を落とし、辺りが昼のように明るくなった。生きた心地がしなかった。

貨物列車に乗って東彼川棚町の海軍病院に着き、背中のガラスを取り除いてもらった。十三日前後には長崎に戻り、寮でわたしを捜しに来ていた兄とばったり出会った。張り詰めていた気持ちが一気に緩んだ。兄の肩に寄り掛かりながら為石村まで帰っていると、道路に倒れ込んだ人たちが「助けて」とわたしたちの足をつかんできた。助けたい気持ちはあったが、自分のことで精いっぱい。振り払うことしかできなかった。

無事に実家に帰り、生きるために一生懸命働いた。五年後、右腕に黒い固まりができ、手術をするとガラスの破片が出てきた。背中には今でもガラスが埋まっている感覚がある。原爆の体験は体中に刻まれている。
<私の願い>
戦争を体験した人しか本当の恐ろしさを理解できないと思う。しかし、戦争は絶対に繰り返してほしくない。これから社会を担う若者には、戦争体験者の言葉に真剣に耳を傾け、人が殺し合う愚かさを学んでほしい。

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