長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

「水ば…」渇き訴える

2003年4月24日 掲載
宮崎 正光(66) 宮崎 正光さん(66) 爆心地から約5キロの長崎市西小島で被爆 =島原市栄町=

被爆したのは八歳の時。七人兄弟の下から三番目だった。

八月九日、天気が良かったので弟と庭で遊んでいたら、空襲警報が出た。大急ぎで家の中に逃げ込んだが、やがて警報が解除になり、ホッとした。母は昼食の準備を始め、しちりんで何かを焼いているようだった。突然、周囲がピカッと光り、爆風に襲われた。何が起きたのか、全く分からなかった。気が付くと窓ガラスが粉々に砕け、弟が頭にけがをしていた。

家族で弟を病院に連れて行くと、肌が焼けただれた人たちが、次々にリヤカーなどで運び込まれていた。夏の暑さと人の熱気で汗が噴き出た。「水ば、水ば」。あちこちで、のどの渇きを訴える声が聞こえた。「水はやらんでください」と病院の人が叫びながら手当てしていた。重傷者は後回しにして、助かる人から治療していた。

弟の手当ての後、帰宅した。自宅は、屋根瓦が吹き飛んでいたが、石垣のおかげで倒壊は免れた。食料は、事前に親が農家の知人に分けてもらっていたので、それを少しずつ食べてしのいだ。いってもらった大豆をがりがり食べた。水に困り、遠くまで水くみに行ったのを覚えている。造船マンの父は「いつまた爆弾が落ちるか分からん。警報のサイレンが鳴ったら、すぐ防空ごうに入れ」と何度も言っていた。

数日後だったと思う。中央橋近くで家具屋をしていた親せきの無事を確認するため、家族で会いに行くことにした。町中は電柱が倒れ、まだ火がくすぶっていた。川では人が折り重なって死んでいた。生きている人を助け出す光景もあった。家具屋の店舗は壊れ、親せきには会えなかった。幸いにも数年後、親は再会できたらしい。

終戦のことは父から聞いたと思うが、幼かったのでよく覚えていない。ただ、被爆したあの日のことは、今も鮮明に脳裏に焼き付いている。

大人になり、島原半島で印刷所に就職し、独立した。父は晩年、体調を崩して歩けなくなり、寝たきりになった。(島原)
<私の願い>
戦争は多くの一般市民を巻き込む。なぜ戦をしなければならないのか。イラク戦争では核兵器の使用も懸念した。追い詰められた方が使う場合もある。とにかく武力ではなく話し合いで解決すべきだ。

ページ上部へ