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私の被爆ノート

無数の死体に感覚まひ

2003年4月18日 掲載
八並サツ子(75) 八並サツ子さん(75) 爆心地から1.1キロの大橋町で被爆 =対馬厳原町西里=

被爆したときは十八歳だった。

八月九日は快晴。いつものように朝から長崎市大橋町の三菱兵器製作所で魚雷の部品の検査業務に当たっていた。空襲警報が出たので住んでいた住吉の寮のそばのトンネル工場に走って避難した。間もなく警報が解除され製作所に戻り、職場の部屋に戻ってすぐだった。一帯が「ピカーッ」と光った。が、この後は何が起きたか全く覚えていない。

どのくらい時間がたったのだろう。目を覚ますと真っ暗だった。屋根の下敷きになっていた。光が差す方向にはい出してみると、そこは地獄だった。製作所はもちろん、周辺の建物はほとんどつぶれてぺしゃんこ。あちらこちらから人がはい出してきて、皮膚がむけて赤くなったり、歩いている途中に倒れたり。子どもの名前を狂ったように叫んでいる母親もいた。私は両ひじから出血しており、胸がムカムカして気持ちが悪かった。

行くべき所も分からず友達と一緒に座っていたら水が運ばれてきた。飲んだもののすぐに吐き出し、ガス臭いにおいがした。それから山の方に避難したが、途中、アリがあめ玉に群がるように川べりに頭を突っ込んで大勢の人が亡くなっていた。このとき自分が生きているという感覚がなかった。芋畑で夜を明かすと、周りではまた大勢の人が亡くなっていた。

十日の午後は、水や食料を提供する場所が時津にあると聞いて友達と歩いていった。公民館みたいなところで、けがをした人たちが手当てを受けていた。私は気分が悪くずっと木陰で休み、数日間何も口にしなかった。

実家の平戸まで列車を乗り継いで向かった。平戸の手前の田平の船着き場まで両親が来ていた。二人は私の顔を見て涙を流し、私も泣いた。このとき、やっと、生きている、という実感が持てた。しかし、それから約一カ月間、髪の毛は抜け、歯茎から出血し、四〇度の熱が出た。周りからは「もう死ぬ」と言われていた。

原爆で亡くなった人たちの表情や地獄絵図のさまは脳裏から消えることはない。(対馬)
<私の願い>
原爆の日はどこにいても必ず十一時二分になると立ち止まり黙とうをささげる。どんなことがあっても平和であってほしいし、これからの子どもたちを戦争に巻き込むことがあってはならない。

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