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私の被爆ノート

校舎崩れ下敷きに

2003年4月10日 掲載
松尾志づ子(72) 松尾志づ子さん(72) 爆心地から約3.2キロで被爆 =佐世保市小島町=

佐古国民学校に通っていたが、戦況の悪化で授業もなく、報国隊として防空ごうを掘ったり、貯金局の事務などをして働いた。大橋にあった三菱兵器製作所では最初は事務だったが、男性が兵隊として召集されて減っていき、後では魚雷づくりもさせられた。

原爆投下の一年ほど前に健康診断で胸に異常が見つかったため、本籠町にあった実家で養生することになり、数カ月過ごした後、桜馬場町にあった学校で働くことになった。

原爆投下の日は朝から警戒警報が鳴っていたが、出勤した。その日は大橋の近くの学校に書類を持っていく予定だったが、「主事先生」と呼んでいた上司が「危ないかもしれん。行くのをしばらく待っとかんね」と言ってくれたので、職員室で待機していた。

そのとき木造の校舎が突然ぐちゃぐちゃに崩れ、がれきの下敷きになった。やっとの思いではい出したものの、何が起きたのか、周りの状況が全く分からなかった。

家族のことが気になり、実家に向かった。空は曇ったように暗く、辺りは夜中のように静かで怖かった。家に戻ると、町内の人たちが近所の鳥居の横にあった防空ごうに避難していた。家族もそこにいて全員無事だった。

防空ごうの中には、被爆した近所の人たちが次々やって来た。時間がたつにつれて具合が悪くなった人たちが、夜中に「水をくれ」「のどが渇く」とうめき声を上げて苦しんでいた。亡くなると、木を組んで火葬したが、その光景はまさに地獄だった。

防空ごうの外に出ると危ないということで、しばらくはごうの中で生活した。天皇陛下の玉音放送を聞いて戦争が終わったことを知り、外に出た。

私は二回も命拾いしたと思っている。一回目は胸に異常が見つかり、三菱兵器製作所に行かなくて済んだこと。二回目は原爆投下の当日、書類を持って行かなかったこと。配慮してくれた先生に対してはありがたいという気持ちでいっぱいだ。原爆によって髪が抜けたり、子供を失った親類もいた。戦争はもうこりごりだ。
<私の願い>
米国のイラク攻撃が始まったが、戦争は家族の幸せを壊すので絶対に反対だ。孫たちのような若者を戦場に送らなければならない状況にはしないでほしい。

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