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私の被爆ノート

負傷者の手当てできず

2003年4月3日 掲載
中道 綾子(72) 中道 綾子さん(72) 10日に入市被爆 =西彼時津町浜田郷=

あの日は朝から母と一緒に自宅近くの田んぼの草刈りに精を出していた。暑い日だった。作業はのどかで、「このまま静かな時間が続けばいい」と思っていた。

しばらくして「ウオーン」と飛行機の飛ぶ音が聞こえた。警戒警報が解除された直後だったので味方だろうと思っていた。でも、その音が途絶えたと思った瞬間、せん光が走り、かがめていた背中が一気に熱くなった。あまりの熱さに、泥まみれの手で背中を押さえた。「田んぼの中に伏せろ」。母が叫んだ。

自宅に戻ると家は爆風で壊れかかり、乳飲み子を抱いた兄嫁がぼうぜんと立ち尽くしていた。「街(長崎市内)がやられたらしい」。近くの病院には傷ついた人が次々と運ばれ、市内はかなりの被害が出たと推測できた。

次の日、市内の親せきの安否を確認するためリヤカーを引いて自宅を出発。長崎市内に近づくにつれ異臭が強くなり、至る所で火の手が上がっているのが見えた。四本の足を天に向け、歯をむき出しにして死んだ馬、すすで真っ黒になった顔でぼんやり歩いている人、生きているのか死んでいるのか分からない人―。その中でも、ぐにゃりと曲がった鉄の棒と家野町にあったガスタンクが傾いていたのが印象的だった。どれくらいの力が加わったのだろう。背筋が寒くなった。

時津の家に戻ると、休む間もなく近くの寺に運ばれたけが人の看病に当たった。毎日多くの人が運ばれ、次々に死んでいった。生きていても薬がないため治療できず、傷口にうじ虫がわいた。私たちはそれを布でふき取ったり、うちわであおぐことしかできなかった。亡くなった人は一カ所に集められ、十数人一度に火葬され、一つの穴にまとめて埋められた。胸がつぶれる思いだった。今思い出しても涙が出る。

時はたったが、見た物、感じたことは鮮明に思い出すことができる。それだけ衝撃が大きかったのだろう。今イラクで戦争が起きているが、その様子を見るのはいたたまれない。戦争を知る者が悲しさ、むなしさを伝えなければならないと思う。
<私の願い>
戦争を生き抜いた者として、世の中を住みよくしていくのが使命と思って生きてきた。身近な人が死ななければ戦争の悲しさを本当に知ることはできず、若い人には映画やテレビでなく、戦争体験者の言葉からその悲しさを想像してほしい。

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