当時十八歳。五島新魚目町の親元を離れ、長崎市の三菱兵器製作所大橋工場で魚雷の部品を仕上げる作業に励む毎日だった。
あの日は蒸し暑くて上半身裸になっていた。原爆投下時の記憶はなく、気が付くと床に倒れていた。
工場の屋根はなく、曲がりくねった鉄骨がむき出しになっていた。一緒に作業していた組長や同僚、女子工員ら十人の姿はなかった。
何が起きたのか分からず、工場を出て放心状態のまま道ノ尾方面へ歩いた。しばらくして、左手中指の指先がなく白い骨が見え、薬指も大きく裂けて、けがをしているのに気付いたが、痛みを感じていなかった。小川で見知らぬ若い女性が、包帯代わりにハンカチを破って指の手当てをしてくれた。
夜は、どこかの防空ごうに泊まった。真っ暗で何も見えなかったが、奥の方から声が聞こえ、何人か避難しているようだった。
翌日、工場に戻ってみた。その途中、小さな子どもの死体を板に乗せている光景が目に焼き付いている。近くのガスタンクがなくなっていた。工場内では防火水槽脇に女性が倒れて死んでいた。
下宿していた船津町の叔母宅に向かったが、周辺は家々が倒壊するなど一変していた。家の場所が分からず、通りすがりの人たちに何度も消息を尋ねた。「田結村(北高飯盛町)に避難したかもしれない」と聞き、同村まで歩いた。結局、叔母の姿はなかった。 数日後、漁船で古里の島に戻ると、母や弟が無事を喜んでくれた。同郷の同級生三人も被爆した。一人は長崎で死亡し、二人は帰郷した。しかし、一人は間もなく、もう一人も後遺症に苦しみ数年後に亡くなった。
私は帰郷後に高熱が続いて苦しんだ。数年後、左手の甲から、十八年後には、ほおからガラス片を摘出した。
戦後は漁船に乗り込み、一九五二年に同郷の四歳年下の妻と結婚した。妻もまた爆心地から約二・七キロの長崎市金屋町で被爆している。
夫婦二人、忌まわしい原爆の記憶が頭から離れない。 (上五島)
<私の願い>
原爆の悲劇は二度と繰り返してはならない。核兵器は地球上に無用の存在。すべて即廃棄すべき。子どもたちのためにも戦争のない平和な世界を願う。