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私の被爆ノート

今でも近づけない

2003年3月13日 掲載
梅津 京子(76) 梅津 京子さん(76) 爆心地から約1.2キロの茂里町で被爆 =長崎市築町=

あのころは赤い靴にあこがれていた。だが、もんぺ、防空ごう掘り、残業の日々…。この生活から抜け出せればどんなにいいのにと、気がめいっっていた。

体調を崩し、数日前から仕事を休んでいた。八月九日はどうしても出勤しなければならず、無理して家を出た。勤務先の三菱長崎製鋼所(茂里町)に着いたのは午前十時半。空襲警報が解除され、同僚たちは地下室からほっとした表情で出てきていた。

また今日からそろばんとの生活が始まる―。給与課の席に着くと、窓際の同僚が「何かが、ゆっくり低空飛行してくる」と言った。その後、光も音も覚えていない。深くどんよりとした感覚。

どのくらいたったのか。「大丈夫か」。先輩の声で目が覚めた。席から十数メートル飛ばされ、地下室の階段に倒れていた。左の顔と腕がやけどでひどく痛む。髪も焼け、手ですけない。

事務所の中は廃虚。先輩がカッターシャツを水でぬらし傷口をふいてくれた。仲の良い同僚は、崩れた壁の下敷きになっていた。顔では判別できず、声で分かった。夜露は体に毒だろう。事務所に同僚と並んで寝た。逃げることも考えたが、外に出るのは不安だった。

「迎えが来てますよ」。翌朝、知らせと同時に父の顔があった。涙があふれ抱きついた。二人で疎開先の矢上町へ。飛行機の爆音が聞こえてくる。被害状況を見に来たのか。足がすくみ、よく歩けない。

さまよい歩くけが人が目についてつらい。おなかが膨れた子どもに水をあげると、そのまま末期の水になった。もう水をあげるのはやめよう。そう思った。

家は、父が助けてきた家族や親せきであふれた。皆、絶えず水を求め便意を訴える。父が何度も汚物をきれいにした。私はのどが腫れ、食事もままならなかった。

五年後、県庁マンと結婚。二回流産したが、二人の子どもを授かった。生まれたとき、心配でまともに顔を見られなかったが無事だったことに安心した。孫にも恵まれ、いつからか「赤い靴を履かんね」が口癖になった。

自宅のあった築町で衣料品店を営んだ。時間が傷を癒やしてくれる。そう思って。でも、今でも茂里町には近づけない。
<私の願い>
最近、しりもちをついただけなのに腰の骨が折れた。体はそこまで弱っているのだろう。こんな体にしたのは戦争、原爆。二度と繰り返してはならない。

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