当時十七歳の私は、長崎市内にあった三菱電機中等科に通うとともに、三菱電機長崎製作所で働いていた。製作所の特別防火隊として八日から会社に泊まり、九日は普段通り仕事に出ていた。
作業中、時間ははっきり覚えていないが、突然、サーチライトのような強烈な青白い光が天窓から差し込み目がくらんだ。体が熱くなった。周辺をさまよっていると、爆風が吹き、とっさに「爆弾だ」と叫び床に伏せた。しばらくして起き上がると、工場内は土煙が充満して何も見えず、音も聞こえなかった。
私は天窓の下にいたため、頭から背中にかけて無数のガラス片が刺さり、頭部からの出血で上半身は血だらけの状態だった。友人に言われ初めてそのことに気付いたが、痛みは感じなかった。
救護所は混雑がひどく、しばらくの間そのままでいた。空を見上げると、浦上方面は黒煙に覆われており、大量の大型爆弾が落とされたのだと思った。
夕方、上司らと浦上にあった鋳物工場の様子を見に行った。稲佐橋にさしかかった時、燃えさかる建物の炎熱に道を阻まれ、防火用水を頭からかぶり突破を図った。三、四回目にやっと通り抜けた。やっとの思いで工場にたどり着いたが、工場は全滅だった。
翌日、鎮西中学校舎(現活水中学・高校)に疎開中の別の工場に向かった。グラウンドを通り掛かると、一面に寝かされたけが人や死体の中から私の名前を呼ぶ声がした。小学校の同級生だった。
「大丈夫か」と声を掛けると、「もう駄目だ。水が飲みたい」と弱々しく応えた。鉄管から漏れる水を鉄製のヘルメットにくみ、彼の元へ戻ったが、既に息絶えていた。約十分間の出来事だった。彼の体に水を掛けて合掌し、その場を立ち去った。別の工場は、建物は残っていたが、内部は黒焦げ。死体も焼け焦げ、身元も判別できないほどだった。
十二日、被爆した母が避難していた城山の知人宅を訪ねると、その日の朝に死んだ母の遺体を父と姉が焼いていた。松山町の会社に勤めていた弟は即死。自宅(竹の久保町一丁目)で被爆した父も十八日、容体が悪化し息を引き取り、三人の家族を原爆で失った。
<私の願い>
戦争の悲惨さは体験した者しか分からない。犠牲になるのは罪もない市民ばかり。同じ過ちを繰り返さないよう、親から子、子から孫へと語り継ぐ必要がある。