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私の被爆ノート

自分の手で家族だびに

2017年3月1日 掲載
山内 良巳(73) 山内 良巳さん(73) 爆心地から約3キロの長崎本博多郵便局で被爆 =福岡市中央区=

原爆で亡くなった家族の遺体を自分の手で焼いた心の傷が今も残っている。

その日は長崎市本博多町(現在の万才、興善両町の一部)にある長崎本博多郵便局での前日からの夜勤を終え、午前八時半ごろ坂本町にある自宅に帰った。当時私は十五歳。家では私を含め両親と叔母、叔母の長女の五人で生活。自宅は爆心地から約五百五十メートル。この日も郵便局での勤務が入っており、朝食を取った後、午前十時半ごろ郵便局に着いた。

学徒動員された長崎女子商業学校の生徒と二人で作業をしていると、突然、局内に黄色い強い光が走り、約三秒後に遠くで雷鳴のような音がした。と同時に、窓ガラスや壁土が大雨のように降ってきた。私はとっさに机の下に潜り込んだ。

辺りが静まったので、周囲を見るとほこりで薄暗かった局内がだんだん明るくなってきた。一緒に働いていた女生徒の名前を呼ぶと元気な声が返ってきたが、その姿はガラスの破片が顔に刺さり、血だらけだった。私は女生徒を医務室まで運び治療を頼んだ後、郵便局の業務を暫定的に寺町の寺院に移すことが決まったので、その仕事に取り掛かった。しかし浦上方面が延焼中との情報を聞いていたので、自宅にいる両親や叔母らの安否が気になっていた。

寺院で一夜を過ごしたが、やはり気になり郵便配達の担当課長に無理を言って自転車と腕章を借り、朝から急いで自宅に向かった。たどり着いたものの、あったはずの家はなく、辺り一面焼け野原になっている。私は家族がどこかに避難したかもしれないと思い、それから八日間、捜し歩いた。その間に見た黒焦げや目玉の飛び出た遺体が続く惨状は、今でもはっきり覚えている。

結局、家族を捜し出すことはできなかった。九日目、佐賀の伊万里にいた叔父に長崎に来てもらい、自宅の焼け跡を詳しく見てもらった。叔父は焼け跡から骨と黒焦げの四人の遺体を見つけ、被爆時の状況などを推測して説明してくれた。

家族全員が亡くなったと確信したが、あの時、不思議と涙が出なかった。今思えば、感情の極限を超えて放心状態になっていたのだと思う。私は叔父と二人で、亡くなった家族をだびに付した。私の心の傷は今も癒えない。 (福岡支社)
<私の願い>
親の遺体を自ら焼くという悲しいことはあってはならない。だから原爆が憎いし、そんな体験を二度としないよう私たちは叫び続けている。若い人たちも平和についてあらためて考えてほしい。

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