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私の被爆ノート

校舎焼け、学友も死亡

2003年2月13日 掲載
小島 節夫(71) 小島 節夫さん(71) 入市被爆 =東彼川棚町白石郷=

十三歳だった私は、長崎市上野町の工業学校に通っていた。川棚から通う生徒は珍しく、学校と九州配電での作業を交互に行っていた。

長崎に原爆が投下された八月九日は登校日だった。川棚駅から列車で学校へ向かっていたが、長崎駅で警戒警報が発令されたため、やむなく引き返すことになった。しかし大村付近で警報が解除されたことを知り、もう一度長崎に向かうことになった。

長与駅に到着した時だった。まるでマグネシウムに火を付けたようなまばゆい光を見た。次の瞬間、ドーンという音とともにものすごい爆風が吹き、列車が大きく揺れた。窓ガラスは割れ、窓側の席の人たちは血まみれになっていた。

何が起きたのか分からずぼうぜんとするばかりだった。私の前を被爆したと思われる人たちがリヤカーで次々と運ばれていた。

何とか夕方には自宅に帰り着いた。どのように帰ったのかは覚えていないが、川棚から長崎の方を見ると、空がオレンジ色に染まっていたのが今でも忘れられない。

十一日、学友らが心配になり学校へ向かった。大橋付近には死体が折り重なり、川にも顔がカボチャのように膨れた死体が流されていた。まるで地獄絵図のような町をひたすら学校を目指して歩いた。

学校にたどり着いたが、私はその状況にあぜんとした。一面焼け野原で校舎は跡形もなく、がれきの山を先生らしき人が掘り返していた。後で分かったが、学友はほとんどが亡くなっていた。

原爆投下後、川棚に多くの被爆者が搬送されていた。次々と川棚駅に運ばれてくる被爆者を、稲わらで作ったかますに載せ、海軍病院などに連れて行った。全身が焼けただれている人や、うなり声を上げている人を婦人会の女性が、うちわであおいでいた。二百八十人が運ばれ、約七十人が亡くなったという。

今でも列車で長崎に行くことがあるが、そのたびにあの悲惨な光景が思い出される。
<私の願い>
被爆者は水を求めながら亡くなった。きれいな水や自然を守ることが平和への第一歩だと信じている。平和がいかに尊いものかを味わった者として、悲惨な戦争は二度としてほしくない。

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