毎熊 弘行
毎熊 弘行(76)
毎熊 弘行さん(76) 爆心地から1.6キロの銭座町で被爆 =神奈川県川崎市

私の被爆ノート

うわごとで「ギター」

2003年2月6日 掲載
毎熊 弘行
毎熊 弘行(76) 毎熊 弘行さん(76) 爆心地から1.6キロの銭座町で被爆 =神奈川県川崎市

当時、私は鎮西学院中学の三年生。あの日は、学徒動員で茂里町の三菱兵器工場に向かう途中だった。銭座町のがけ沿いを歩いていると、突然、ピカーッと光った。「バーン」というものすごい音を聞いた直後、意識がなくなった。爆風で体が吹き飛ばされたらしい。どのくらい時間がたったか覚えていない。目が覚めたとき、空は真っ暗だった。打撲していたが、やけどはなかった。がけの陰にいたため、熱線が遮られたのだろう。

夫婦川町の自宅に戻ると、家の中は爆風でめちゃくちゃ。ふすまが吹き飛ばされ、畳がめくれ上がっている。風呂場のガラスが割れ、カーテンに突き刺さっていた。

その日の午後、顔が真っ黒になった人が、つえをつき、ふらふらしながら私の家の方に歩いてきた。誰だか分からない。声を掛けると幼なじみの近くの女学生だった。

「どうした」

「浦上は火の海。もう何もなかばい」

女学生は浦上辺りで被爆したらしかった。あまりにひどい顔なので、私の家の洗面器で顔を洗わせた。タオルで顔をふくと、「痛い!」と悲鳴を上げる。顔にガラスが刺さっていた。

数日後、学校の先輩と一緒に、その女学生を見舞った。彼女は「髪の毛が抜ける」と言う。手には斑点が浮き出ていた。彼女を励まそうと、先輩が持参したギターに合わせて歌った。

やがて彼女は高熱を発して寝込んだ。あらためて先輩と一緒に病床を見舞ったところ、高熱にうなされていた。口から血が流れ、枕元には血の付いたちり紙が散乱。母親が声を上げて泣いていた。彼女は、うわごとで「ギター、ギター」と言う。だが、悲惨な姿を見るに忍びなく、歌も歌わずに帰った。

その夜、先輩は私の家に泊まった。二人とも不安を感じ、翌朝早く、女学生の家に駆け付けたが、既に事切れていた。母親によると、最期まで「ギター、ギター」とうわごとを言っていたという。棺桶(おけ)の中にギターを入れて、一緒に葬ってもらった。
<私の願い>
私は被爆から現在に至るまで下痢に悩まされている。肺がんを患い、原爆症に認定された。原爆を造ってはならないのはもちろんだが、核保有国もほかの国に「造るのはやめろ」と言うだけでなく、自ら核を廃絶しなければならない。

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