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私の被爆ノート

無言で死んだおじさん

2003年1月30日 掲載
出原 幸子(72) 出原 幸子さん(72) 爆心地から3.2キロ、長崎市飽の浦2丁目で被爆 =長崎市女の都3丁目=

女学生だった私は、昭和二十年四月から西彼香焼島の川南造船所に学徒動員されていた。夜明け前に長崎市飽の浦の下宿先を出て、旭町から船で香焼島に通っていた。あの日もいつも通り午前七時半に始業し、手りゅう弾を作っていた。一日二十個作らなければならなかった。作業を始めた直後、砂が目に入り病院に行くため早退した。

診察を終えて下宿に戻ると空襲警報が鳴り、裏山の防空ごうに逃げ込んだ。警報が解除されたのが午前十時すぎ。昼食の雑炊を準備しようと、かまどの種火を火吹き竹で吹いた。何度も繰り返し、やっと火が付いた途端、ピカッ。少し間があって「ドーン」と大きな音を聞いた。

爆風で吹き飛ばされたのか、気が付くと五右衛門風呂の大きな炊き口の中に頭から突っ込んでいた。「助けて、助けて」。体をどうしても動かせず大声で叫んだ。

声に気付いた隣のおじさんが、やっと引っ張り出してくれた。顔はすすで真っ黒になり、背中や腕など全身傷だらけ。赤チンキを塗ってもらった。

その後、怖くて防空ごうに戻った。すると、顔見知りのおじさんが真っ黒に焼けたトタンにくるまって、ごうの前でバッタリと倒れた。中に入れると、体中の傷口からうじがたくさんわいていた。

「早く取ってあげなさい」。周りにいたおばさんたちに言われ、割りばしでうじを一つずつ取った。はしが肌に触れるたびに、ピクッ、ピクッと動いた。おじさんは間もなく亡くなった。家族の人に一言も話せないまま息絶えたおじさんが、本当に気の毒でならなかった。

私も二、三日後、腹痛と吐き気が起こった。髪の毛も束で抜けた。死ぬことが当然と思っていた時代。敵機の機銃掃射にさらされるたび、「こんなに苦しいのなら、白米のおにぎりを一個でいいから食べて死にたい」。いつもそう考えていた。一日一日、誰かが命を落としていた。いまだに朝目覚めると「生きてよかった」と胸に迫ってくる。
<私の願い>
今もイラク攻撃などが取りざたされているが、戦争は絶対嫌です。あんなひどいことは二度とあってほしくない。子どもや孫にはあんなに苦しい思いをさせたくない。

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