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私の被爆ノート

想像絶する焼け野原

2003年1月18日 掲載
水田セイ子(75) 水田セイ子さん(75) 8月11日に入市被爆 =南高北有馬町己=

戦時中、コメなどを配給する県食糧営団(長崎市常盤町)に勤めていた。当時は、同市松が枝町の実家で年老いた両親と三人で暮らしていた。空襲が激しくなったので一九四五年八月上旬、姉の嫁ぎ先の南高北有馬町に両親を連れて行った。

北有馬町に疎開して二、三日たって原爆の日を迎えたと思う。

八月九日。私は姉の家の縁側で涼んでいた。何げなく外を眺めていると一瞬、パッと何かが光った。稲妻でもなく、目に刺さるような光線を見た。近所でも「今のは何だった」と表に出てくる人がいた。「長崎市に新型爆弾が落ちた」とうわさが広がり、実家が心配になって十一日早朝、臨時列車で長崎市に向かった。

列車内は、親族を捜しに行く人たちでいっぱいだった。道ノ尾駅で降りると、構内に被爆した人たちがたくさんいた。皮膚がただれ、衣服がぼろぼろになった人もいた。

十八歳の私は気が動転した。「どんな爆弾が落ちたんだろう。こんなひどいとは思わなかった」。戻ってきたことを後悔しながら、列車から降りた人の列とともに中心部に向かって歩いた。

しばらくして、同じ職場の先輩が、非常米をトラックから降ろしている姿を見つけた。名前を呼ぶと「何しに来たとか。みんな逃げてしまいよっとに」と怒られた。事情を説明し、トラックの荷台に乗せてもらった。

トラックが南下するとともに、荷台から見える光景は想像を絶した。一面の焼け野原。建物はがれきの山に変わっていた。亡くなったり、けがをした人をまともに見ることができなかった。この時の恐怖は一生忘れることができない。

大波止付近までトラックで運んでもらい、歩いて何とかその日の夕方に実家にたどり着いた。

実家は爆風で室内が壊れていた。それでも実家に着いて、自分が生きているという実感がわいてきた。それから時間がたつにつれ、同僚や友人の死を知った。

<私の願い>
核兵器をなくしてほしい。米国には戦争を起こしてもらいたくないし、日本も軍事支援してほしくない。戦争も核兵器もない世界を望みます。

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