銭座国民学校(銭座町)に勤めていた。一九四五年ごろになると、戦争は一層激しさを増し、児童は夏休みを待たずに自宅待機となった。教員たちは、学校に待機するか、長崎市内の田畑を借りて農作業をしていた。二十三歳だった。
「あの日」は、同僚数人と校内の宿直室にいた。何をしていたのか思い出せないが、突然、「ピカッ」と光り、周囲が光に包まれたのを覚えている。「あらっ」と思った瞬間、建物はガラガラと崩れ落ち、辺りは真っ暗に。一瞬の出来事だった。崩れる建物に埋もれていくようで「死ぬのかな」と思った。直後、意識を失った。不思議と恐怖心はなかった。
どれくらい意識を失っていたかは覚えていない。気が付くと青空が見えた。自力で立ち上がり校舎に向かった。コンクリート造りの校舎はほぼ原形をとどめていたが、中は机や棚が倒れ、窓ガラスも割れて破片が飛び散っていた。校舎から出て辺りを見渡すと、山手の家々はつぶれていた。あまりの変わりように驚いた。顔や腕などには無数のガラス片が刺さっていた。痛さは感じなかった。
家族のことが心配になり、学校を出て自宅(現在の金屋町)を目指した。無我夢中で歩いた。しかし、建物などが倒れて道をふさぎ、前へ進めなかった。人も倒れていた。そこで、体の傷の手当てを受けようと、新橋町(当時)にあった病院に向かった。院内は多くのけが人が順番を待っていた。
治療を終えた私は、何かあったら寺町近くの親せきの家に行こうと、家族で決めていたことを思い出し歩き始めた。親せきの家に着くと、母や祖母らが既に来ていて、抱き合って喜んだ。町内の世話をしていた父も夜には到着したが、城山の知人宅に出掛けていた三つ下の弟だけが帰らなかった。心配だった。
翌日から数日間、私は母と二人で、弟がたどったと思われる城山までの道のりを歩いた。街は焼け野原。がれきなどを積み、遺体を焼く光景があちこちで見られた。「どこかに逃げ込んでいないか」と思ったが、弟を捜し出すことはできなかった。恐らく死んだのではないかと思う。
<私の願い>
戦争が残すのは悲劇だけ。どうして憎しみ合い、殺し合わなければならないのか。核兵器をつくる労力があるのならば、それを人々が穏やかに暮らせるように使ってほしい。