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私の被爆ノート

皮膚はげたまま歩く老人

2002年12月28日 掲載
高島 進(71) 高島 進さん(71) 爆心地から3.5キロ自宅で被爆 =長崎市鍛冶屋町=

当時十四歳で、旧制中学二年生の夏休みだった。三―五年生は兵器生産のため工場に駆り出され、一、二年生は自宅待機を命じられていた。

私が長崎市八坂町(現在の鍛冶屋町)にある自宅の軒下にいると、突然せん光が走り、白昼というのに辺りは一瞬にして真っ暗になった。何が起きたか分からないまま外に出てみると、空は赤く燃えているようだった。生きた心地がせず夢中で家の奥へと逃げた。母が「進、進」と呼ぶ声でわれに返り、一緒に近くの防空ごうへ向かった。

道は各方面から逃げて来る人、ひどいやけどを負って死んでいる人、声をからして親の名を呼ぶ人、泣き叫ぶ子どもらであふれ、この世の光景とは思えなかった。上半身の皮がぺらぺらとはげ落ち、サーモンピンク色の肌をむき出しにしたまま歩く年老いた男性はとても痛々しく、今でもはっきりと覚えている。

防空ごうには夕方になってたどり着き、次の日には田上の知り合いを頼って移動した。その家にも多くの人が来ていたため、十二日は母と一緒に弟が疎開していた西彼多良見町の叔母の家を目指して歩き始めた。途中で肌が焼けただれた人や死んでいる人を何人も見たが、感覚がまひしていたようで動揺もしなかった。

叔母の家で終戦まで過ごし、市内に戻ると、あちこちで死体を集め焼いている光景を目にした。夜になってもその作業は続き、いつまでも消えない炎と鼻をつくにおいが不気味で、これからどうなるのだろうかと不安だった。

学校は十月ごろ再開したと思うが、母親が子どもを捜しに学校に来るのを見るにつけ心が痛んだ。後で大勢の級友や近所の人たち、親類が亡くなったことを聞き、憤りと寂しさで何とも言えない気持ちになった。

こんな経験をするのは自分たちだけで十分。ほかの国の子どもたちが同じような目に遭わないよう、世界中から戦争がなくなってほしい。
<私の願い>
人為的に多くの人を死なせる核兵器を絶対に許すことはできない。この世から悲惨な戦争がなくなることを願いながら、「ノーモアヒロシマ、ピースフロームナガサキ」を叫び続ける。

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