当時は十七歳で西彼香焼町にあった造船の専門学校に通っていた。その日もいつもと同じように学校で迎えた。
休み時間に友人と雑談していた時だった。突然「ピカッ」と、見たこともない光が走った。何があったのか分からず辺りを見回したところ、数秒もしないうちに「ドーン」という衝撃波に襲われた。同時に教室のガラスが割れ、天井や壁が崩れ落ちてきた。
われ先に教室を飛び出し、近くの防空ごうに逃げ込んだ。しばらく身を潜めた後教室に戻ると、崩れた壁の土砂が何センチも積もるひどいありさまだった。長崎の方では原子雲がもくもくと上がっていた。その時は「これは何だろう」と不思議に思った。
「長崎が大変なことになっている」と学校から連絡を受け救援に向かったのは二日後の十一日だった。船で大波止に着いてすぐ、上空を飛行する米軍機に気付いた。みんな散り散りに逃げたが、旧制瓊浦中時代に世話になった浜口町の下宿先が心配になり、友人と爆心地に歩いて行った。
五島町までは家は残っていたが、八千代町から先は一面焼け野原だった。稲佐橋付近では馬の死体が転び、鉄骨だけになった路面電車が無残な姿をさらしていた。電車にいたであろう乗客のことは考える余裕もなかった。
そのまま浜口町に向かった。浜口のバス停近くの溝の中で女性の遺体を見つけた。顔は紫色に腫れ上がり怖かったが、放っておくこともできず、運ぼうと試みた。
手を引っ張ったが、皮膚がはがれて手のひらにくっついた。そばにあったスコップですくい上げようとしたが、おなかの皮が破れて内臓が出てきた。真夏に何日も放置されていたので、悪臭がひどかったが、友人と担架に乗せ何とか運び出した。
川を眺めて気持ちを落ち着けようと思い、浦上川に行った。しかし川の両岸には何百という遺体が浮いていた。何とかしたいと思ったが余力はなく、下宿先に向かった。家があったはずの場所には何も残っておらず、あきらめて自宅に戻った。家に帰り着いたのは夜だった。それから気分が悪くなり、吐き気に襲われた。
<私の願い>
子どもたちに被爆体験を語り継ぐ活動をしているが、原爆のことを知らない人が多すぎる。核兵器廃絶には世界中の声を結集することが必要。そのためにも若い人に被爆の現実、放射能の恐ろしさを知ってもらいたい。