萩山 広見
萩山 広見(75)
萩山 広見さん(75) 8月13日以降に入市被爆 =平戸市紐差町=

私の被爆ノート

突然ピカーッと明るく

2002年12月12日 掲載
萩山 広見
萩山 広見(75) 萩山 広見さん(75) 8月13日以降に入市被爆 =平戸市紐差町=

八月九日は、いつも通り長崎市竿浦の川南工業深堀造船所に出勤していた。機械類の修理や組み立てなどが仕事だった十八歳の私は、ポンプの修理をしていた。工具を借りるため、敷地内の道具部屋まで歩いていく途中、突然、目の前がピカーッと明るくなった。あまりのまぶしさに私はしばらく立ち止まった。

「漏電か何か起きたかな」と周りを見回した瞬間、造船所内に強風が吹き込み、一寸先も見えないほど砂ぼこりが舞った。同時に、スレート屋根が「ガラガラガラ」と大きな音を立てた。何が起きたのか分からないまま、そばの事務所に駆け込んだ。長崎市街地方向に目をやると、きのこ雲が見えた。

外にいたたくさんの従業員も騒然としていた。「空から落下傘が落ちてきて、その落下傘が三つの光の輪に分かれて広がった」―。”爆弾投下”や”爆発”の瞬間を見たという複数の作業員が、そう話していたと仲間から聞いた。

八月十二日、会社から「浦上や大橋方面にいる工員や家族に被害が出ているとの知らせがある。手分けして救護に行ってほしい」との命令があった。同僚らと手作りの担架を持って翌十三日、会社近くの桟橋から船で出発した。

私たちの組の受け持ちは、山里国民学校周辺の防空ごうだった。防空ごうの前に折り重なっている死体をかき分け、関係者の姿を捜して回った。その結果、同僚の家族一人を助け出すことができたが、ほかの場所を捜した組は誰も発見することができなかった。

その後は一週間ほど長崎医科大付属病院の近くにあった会社の寮の跡地に通い、遺体処理をした。空き地に廃材を敷き、その上に死体を運んでは積み上げる作業を繰り返し、火を放って焼いた。

一日の作業を終えて帰宅する前に、毎日欠かさなかったことがある。その日の作業に携わった全員が燃える遺体の前に整列し、手を合わせての黙とう。私はいつも何と表現していいか分からない複雑な気持ちで「さよなら」と声を掛けていた。
<私の願い>
人類の滅亡につながる原爆という恐ろしい”毒”が作られることは、絶対にあってはならない。悲惨な戦争などせず、競争ならいい意味でするべき。平和に過ごせる世界が一番と思う。

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