吉山 裕子
吉山 裕子(78)
吉山 裕子さん(78) 爆心地から約1.5キロの茂里町で被爆 =長崎市西山2丁目=

私の被爆ノート

マスク生活が何年も

2002年12月5日 掲載
吉山 裕子
吉山 裕子(78) 吉山 裕子さん(78) 爆心地から約1.5キロの茂里町で被爆 =長崎市西山2丁目=

「私の青春って何だったのだろう」と考えることがある。好きな人がいたが戦死した。縁談話もあったが結婚はできなかった。「変な子どもが生まれる」「手を触るだけで原爆症はうつる」。中傷、うわさは原爆で受けた外傷よりもつらく、深く心に積もった。

瓊浦高等女学校卒業後、三菱長崎製鋼所に就職。茂里町の事務所で庶務の仕事をしていた。憲兵に見張られ好きな歌も歌えない毎日。心の中で「早く戦争が終わればいいのに」と思っていたが、口に出すことはできなかった。空襲警報が鳴ると地下室に駆け込み、耳と目をふさいでうつぶせになった。

八月九日もそうだった。午前十一時前、警報が解除され職場に戻ると爆音が聞こえた。窓の外にせん光を見たのと同時に天井や壁が崩れ落ち、下敷きになった。意識はそこでなくなった。

何時間たったのか。気が付くと浦上川を隔てた梁川公園に横たわっていた。運良く助かったらしい。放心状態だった。黒焦げの死体が散乱していたが、なぜか悲しみはなかった。米軍機が低空飛行を繰り返し、それが怖かった。

前歯はなく、上の唇が裂け、垂れ下がっていた。血が噴き出していた。足の骨は折れていなかったが歩けなかった。いざるようにして事務所に戻ると、同じく勤務していた姉と再会した。二日後、両親、妹がリヤカーを引き助けに来てくれた。

家に戻り鏡を見て驚いた。「人前に出られる姿じゃない」。マスク生活が何年も続き運命をのろった。「忘れたい」「忘れられない」。苦しみはいつもあった。人には多くは語らず心の中にしまった。銀行に再就職し勤め上げた。定年後、趣味で絵を始めたころ、自分の中で何かが変化していった。

原爆から五十三年後の夏、一枚の絵を描いた。題名「浦上川」。これまで避けていた場所。思い出したくない光景だったが、デッサンを始めたら青々とした緑、澄んだ水面が目の前に飛び込んできた。「あの時、みんなきれいな水を飲みたかっただろうな」。三日後、穏やかでやさしい絵が完成した。
<私の願い>
原爆という悲しい出来事があって戦争は終わった。今、平和な毎日を送ることができるのは多くの犠牲者の上にあることを絶対に忘れてはならない。平和より尊いものはない。

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