磯 千守
磯 千守(64)
磯 千守さん(64) 爆心地から1.6キロの銭座町2丁目で被爆 =長崎市福田本町=

私の被爆ノート

浦上川に無数の遺体

2002年11月28日 掲載
磯 千守
磯 千守(64) 磯 千守さん(64) 爆心地から1.6キロの銭座町2丁目で被爆 =長崎市福田本町=

当時七歳で銭座国民学校(現銭座小)一年生。母と三人の姉、兄、そして弟二人の計八人で銭座町一丁目(当時)に住んでいた。父は海外の戦地にいた。

あの日は午前九時ごろに空襲警報が鳴ったが、すぐに解除された。それから兄と友人の三人で近くの山にセミを捕まえに出発した。先導していた兄が道を間違えたのかどうか分からないが、約二十分歩いて目的の山とは違う丘の上の広場に着いた。広場には砲台が四つ設置されていた。

しばらくするとB29爆撃機のごう音が聞こえて立ち止まったが、機体は見えなかった。

「警報が解除されたので大丈夫だ」と三人で話し、広場を歩いていると突然「ドカーン」という爆発音が聞こえた。その直後、体が飛ばされた。気付くと口の中が泥だらけで靴も脱げていた。私たち三人は幸運にもけがはなかった。

しばらく近くの防空ごうに避難して下山すると、自宅は半壊。母が中にいて、貯金通帳などが入った手提げを持たせ「砲台の広場に行きなさい」と言ったので急いで広場に戻った。広場には多くの人が避難していた。

母は生後まだ九カ月だった末の弟を抱いて被爆したらしい。背中や両腕に大やけどを負ったが、広場と自宅の間を数回往復して布団を二枚抱えて来た。午後三時ごろ、少し落ち着いて空に目を向けると太陽が大きく見えた。

原爆落下当時、近くの家で遊んでいたすぐ下の弟も被爆。全身やけどの重体で、広場で布団に寝ていたがその日の晩に亡くなった。市内を眺めると炎で赤く染まっていた。自宅も全焼した。

終戦数日後、両親の親せきが迎えに来てくれて、母や亡くなった弟らを担架に乗せて小江町の両親の実家に運んでくれた。途中で目にした浦上川にぎっしりとうずまる無数の遺体を鮮明に覚えている。あの光景は忘れられない。

母は数カ月後に回復したが、末の弟と市内で被爆した三番目の姉は八月末までに相次いで息を引き取った。今もあまり原爆のことは思い出したくない。
<私の願い>
最近は平和ぼけしている人が多く、人の迷惑を考えず和を乱す人が増えた。人間として当たり前のことをきちんとすれば争いごとは起きない。まずは足元から平和を見つめ直す必要がある。

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