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私の被爆ノート

せん光、ごう音、爆風で気絶

2002年11月21日 掲載
馬渡 正子(72) 馬渡 正子さん(72) 爆心地から約1キロの梁川町の淵国民学校で被爆 =南高吾妻町=

実家のあった南高吾妻町の国民学校高等科を卒業後、三菱電機に就職。当時十五歳で、船大工町の寮から淵国民学校(現長崎市立淵中学校)の軍需工場に通勤し、探照灯を作る仕事をしていた。

原爆が落ちた日は、真夏の光が差し、蒸し暑かった。同僚と二人でモーターを運んでいると、ピカッとせん光が走り「何ね」と言った瞬間、ごう音と爆風に襲われ気絶してしまった。

気が付くと煙が立ち込めており、そばにいたはずの同僚は、離れた所にぼんやりと立っていた。自分の右足が大きく切れて、血が噴き出しているのを見た時は心臓が止まりそうだった。

同僚に背負ってもらい外に出て、山手に逃げる人たちに付いていき、山中にあった防空ごうに避難した。中で消防団の人から足や顔のけがに包帯を巻いてもらい「絶対に水を飲むな」と言われた。

翌朝、偶然出会った三菱電機の社員に、寮の避難先になっていた田上の寺に担架で運んでもらった。夕食におにぎりをもらったが、血のにおいがひどくて、口にすることができなかった。

一緒に就職した同級生も避難しており、先に帰郷して吾妻町の実家に連絡してくれた。父母と伯父が寺まで迎えに来てくれた時は、喜びと安どで涙が止まらなかった。

十三日、実家に帰るため、道ノ尾駅まで父に背負われて行った。途中、勝山国民学校で罹災証明書を発行してもらったが、道のりは遠く父は相当疲れただろうと思う。

実家に帰って安心したものの、白血病などのうわさが広がり、原爆の怖さにおののいていた。父に背負われ、傷の手当てに通院する毎日だったが、母が「傷に効く」とユズをせんじてよく飲ませてくれた。

どうにか体調が良くなってきたのは翌年の正月ごろ。「正ちゃんが元気になって、今年のもちがうまかばい」と、父がぽつりと漏らしたひと言が忘れられない。
<私の願い>
今も右足と右腕にはガラスの破片が刺さったまま。当時の苦しみを思い出すと原爆の恐怖と戦争の惨めさを痛感する。平和を大切にして、あんなひどい戦争は二度としてはならない。

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