原爆投下の十時間前、八月九日午前一時に生まれた。もちろん当時のことは覚えていない。私の被爆体験は物心ついたころ、両親が語ってくれた。
筑後町の自宅で母に寄り添い布団で寝ていた。父は長男の誕生で仕事を休んだ。母は体が弱かった。心配していた祖父と祖母。家中が安どと喜びに包まれていた。外は空襲警報と飛行機の爆音が響いていた。午前十一時、父はベランダに出て、浦上の方向に銀色に光って落下する物体を見たという。
瞬間、爆風とともに家中の家財は飛び散った。私の頭には五センチくらいのガラス傷がぱっくりと開いていた。まくらは大量の血で染まった。泣き叫んだ。祖母が応急処置し、父が勝山小の救護所に運び込んだ。医者は頭を横に振った。「だめだろう」。赤チンキと包帯で見守るしかなかった。
小学生のころ、被爆者健康手帳を持っているのが何より嫌だった。「そのうち原爆症で死ぬのではないか」。不安がいつも頭をよぎった。死は身近にあると思っていた。毎年、西坂小のクラスの半数は被爆者健康診断を受けた。健常者とは暗黙のうちに区切られ、差別的な目線がいつも気になっていた。
そんな時代だった。ケロイドの子ども、家のない人、引き揚げ兵。復興していく町並みの陰で、原爆、戦争のつめ跡は瓶にふたをされた。手帳はそんな時代の象徴に思えた。
二十八歳の時、肺がんになった。胸に痛みを感じてから半月後、横向きに寝ることができなくなった。苦しくて呼吸もままならなかった。頭がはれ上がり、顔は別人になった。十八歳から仕事に就き、五年後に独立。事業も軌道に乗り始め、一番忙しい時だった。
頭の中に「原爆症」が駆けめぐった。忘れかけていた「死」が次第に大きくなった。医者は両親に死の宣告をした。私には言わず、隠れて泣いたという。放射線治療が効き奇跡的に回復。八月九日に手術を受け成功した。一度死にかけた「あの日」。今度は「生」をもらった気がした。
<私の願い>
長崎くんちなどの郷土芸能ができるのは、平和な世界があるからこそ。子どもたちがしっかりと世界の状況を見据え、考えて、戦争の抑止力になってほしい。