佐々木留次郎
佐々木留次郎(76)
佐々木留次郎さん(76) 10日救援活動のため入市被爆 =佐世保市庵浦町=

私の被爆ノート

死体のぞき親類捜す人々

2002年11月7日 掲載
佐々木留次郎
佐々木留次郎(76) 佐々木留次郎さん(76) 10日救援活動のため入市被爆 =佐世保市庵浦町=

一九四二年から徴用工として西彼香焼町の川南造船所で働いた。

当時は溶接がまだ発達していなかったため、鉄板や鉄骨を金属製のびょうでつなぎ合わせていた。びょう留め作業に従事する工員は交びょう工、通称「かしめ」といわれ、仕事は忙しかったが稼ぎもよかった。

しかし、終戦が近づくにつれ、材料の調達がままならなくなり仕事も減少。仲間たちと一緒に海軍に志願したが、小柄なため不採用となった。

八月九日は作業がなかったため、防空ごう掘りをしていた捕虜らと外で話していた。

突然、長崎の上空がまばゆく光ったかと思うと、ごう音と爆風が巻き起こった。戦闘機の音が聞こえ、小さな機影が見えたので、爆弾が落とされたことは分かった。その夜、寮で招集があり、広島に投下された新型爆弾が長崎にも落とされたことを初めて知った。

翌十日から、長崎に船で通い、生存者の救助や死体運びなどを手伝うことになった。一夜にして燃え尽きた長崎の街並みは見るも無惨な姿。「お兄さん、水をください」とけがをした若い女性からせがまれたが、励ましの言葉を掛けるしかできなかった。けが人を救護所に連れて行ったり、死体を担架で運んだりした。たくさん並んだ死体の顔をのぞき込み、親類を捜していた人たちの姿が強く印象に残っている。

最近、近くの小学校で被爆体験を話す機会があった。「身長が足りず、海軍に不採用になったときは親を恨んだりもした。でも、戦争で多くの仲間が死んだことを思うにつけ、親に感謝するようになった」と子どもたちに話した。原爆のせん光が目に焼き付き、忘れられない。当時のことを思い出すと今も心が痛む。(佐世保)
<私の願い>
罪もない人が罪もない人を殺し合う戦争を二度と起こしてはいけない。悲惨な結末を引き起こす核戦争は論外だ。子どもたちには戦争のない平和な世界を築いてほしいと思う。

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