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私の被爆ノート

死を覚悟し母親と帰宅

2002年10月31日 掲載
朝長 市造(76) 朝長 市造さん(76) 爆心地から1.1キロの長崎市大橋町で被爆 =西彼長与町岡郷=

当時十九歳。汽車で長与から大橋町の三菱兵器工場に通い、魚雷の爆発栓を製作していた。

八月九日は朝から空襲警報が鳴り、工場から五百メートルほど離れた防空ごうにいったん避難。午前十時ごろ、警報が解除になったので工場に戻った。

午前十一時すぎ、いきなりピカッと光ったと思ったら、ドーンと爆音。工場内は黄色くなり一メートル先も見えない。スレートがバラバラと落ち、吹き飛ばされたガラスが体のあちこちに突き刺さった。

逃げようとすると、今度は工場近くのガスタンク二つが爆発。衝撃で工場の柱が曲がり、屋根が落ちてきた。はいつくばり、ようやく外に出た。

家野町から住吉神社裏を抜け、道の尾の方に向かった。一緒に逃げてきた同僚の女性は、血を流し髪はバラバラで幽霊のよう。途中の道には、苦しむ人たちがまるで芋虫のように転がっていた。

道の尾の三菱職工学校の寮で赤チンキをつけてもらい、日陰で横になった。午後二時ごろ「汽車が出るから病院に行け」と言われたが、全身が痛く身動きできない。激しくのどが渇いた。だが「ひどいけがをしたときは水を飲むな」と教えられていたので、シバの葉で口元をぬらすだけにしてもらった。

救護活動中の長与の消防団長がひん死の私を見つけ、母親に知らせてくれたおかげで、長与から母親と親類がリヤカーを引いて私を連れに来た。長与の尋常小学校の講堂で医者にけがの手当てをしてもらった。

腹の傷口がぱっくりと開き、肩や胸、口元のガラスが刺さったあとを縫い合わせた。周りではやけどをした人が次々と亡くなり、異臭が漂っていた。「もう駄目だ。死ぬならわが家で」と思い、母親に自宅へ連れ帰ってもらった。夜なのに焼け野原の長崎が明るかった。

つける薬もなく、体中が痛かった。家で寝たきりだったが、近所のおばさんが窓の外から「頑張れ」と励ましてくれた。母の看病を受け、三カ月後やっと歩けるようになった。

右腕には今もガラスの破片が残る。傷を見るたび、原爆への憎しみと怒りが込み上げてくる。
<私の願い>
戦争は二度と繰り返してはならない。世界のあちこちで今も紛争が絶えないが、問題解決に武力を使うのは絶対に許せない。世界平和を心から願う。

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