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私の被爆ノート

見るも無惨な町広がる

2002年10月24日 掲載
松尾 信義(73) 松尾 信義さん(73) 諫早市で救護活動、14日に入市被爆 =長崎市界2丁目=

大村の第二十一海軍航空廠(しょう)で働いていた私は、昭和十九年十月の大村大空襲後、部隊ごと諫早公園に疎開していた。飛行機のエンジンなどを分解する発動機班に所属していたが、戦況が悪化し、部品が足らず作るものは何もなかった。あの朝も工場の中に五、六人残っていただけ。

八月九日の昼前。「ヒューズのとんだごたるばい。ちょっと見てくれ」。班長に言われ、工場の入り口上にあった配電盤に手を伸ばそうと、台に上ったところだった。

ピカッ。大きな光が見えた。しばらくしてから、爆風がグォーッと襲ってきた。立っていた台から落とされ、近くの作業台の下に潜り込んだ。

しばらくすると、「近くに爆弾が落ちた」「諫早駅がまた爆撃された」と人々が口々にした。海軍病院があった諫早に、けが人が次から次に運ばれてきた。

諫早公園にも、全身大やけどを負った人や皮膚が焼けただれ、肉がちぎれた人が運ばれてきた。何という姿だ。大村の空襲と比べ、被害がひどい。どんな爆弾が落ちたのか、想像もつかない。ただ、普段の空襲とは違うことが起こったことは分かった。

「すみません、水を下さい」と求めるけが人たち。眼鏡橋のたもとにあったため池から水をくみ、飲ませた。子供は泣く力すらなかった。

十四日、父親が所属していた消防団に同行して、長崎に向かった。長崎に行った部隊の人たちから聞いていた通り、見るも無残な町が広がっていた。

旧長崎医科大近くまで行くと、死体を焼いた後の頭がい骨が、ごろごろと地面に転がっているのが火の中から見えた。

一本柱で立っている鳥居。立っているのではなく、もぎ取られたのだ。なぜ一本の柱だけ吹き飛ばされたのか。

浦上天主堂の石垣。全部崩れ落ちたのではなく、ところどころ抜け落ちている石。熱で溶けたのか、爆風で飛ばされたのか、分からない。

消防団員として被爆直後から救護していた父親は早くに亡くなった。あのものすごい光景、今でも頭から離れない。
<私の願い>
米国がアフガニスタンを攻撃したように、罪のない市民が殺されるのは絶対にあってはならない。米国は安易に先制攻撃をするなどの脅しをかけているが、あんなことは許されない。日本も巻き添えにならないように願いたい。

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