西彼喜々津村(現多良見町)で熱線と灰を浴びた。国民学校五年、十歳のころの記憶は今でも鮮明に残っている。
晴天だった。朝から米爆撃機B29がきらりと光って飛んでいた。警戒警報が解除されたので、近くの中里川で遊んだ。泳ぎ疲れて自宅に戻ったのが午前十一時ごろ。友人と新聞の「広島新型爆弾投下」の記事を読んでいた、その時だった。
ものすごい光と熱線をランニング姿の背中に受け、友人ともども屋内の暗い土間に逃げ込んだ。しばらくすると「ドーン」と腹に響く音。外に出ると矢上普賢岳から喜々津井樋ノ尾岳の方向へ、雲が異常なスピードで飛んでいくのが見えた。
近所の住民は集まって「これが広島新型爆弾じゃなかろか」と話していた。そのうち、太陽が黄色くなり、灰が降り始めた。焼けた紙切れがひらひら飛んできた。空は次第に薄暗くなり、太陽は血のように赤い。真夏だというのに暑さを感じなかった。
「子供は出歩くな」。大人たちの声に逆らい、裏山から虚空蔵山に登ると長崎市方面の山が燃えていた。夜には真っ赤な炎が見えた。どの辺りだったかは今では見当もつかない。
翌日、喜々津国民学校近くの国道(現34号)には、やけどを負った被爆者を満載したトラックが、ゆっくりとした速度で走っていた。運転台も荷台も満員。みんな力なく無言。服は焼け、体にぼろ切れを巻き付け、灰やすすで真っ黒くなった人々が印象に残る。生き残った人たちはどの程度だったろうか。
数日後、母は長崎市水の浦町の叔母の家に出掛けた。浦上方面は全滅だということを、帰ってきた母から初めて聞いた。叔父は三菱技術学校で爆死したという。捜しにいった叔母は腰ベルトの金具で分かったと涙ながらに話していた。
喜々津村でも多くの人が亡くなった。原爆の記憶を風化させないため、喜々津からの遠望を書き残しておきたい。
<私の願い>
今年四月、医療費補償などが適用される被爆地域が拡大されたが、がんや伝染性疾患、十二キロ圏外の被爆者には適用されない。同じ被爆者なのだから、将来的には平等に適用されるよう望んでいる。