山坂 厚
山坂 厚(76)
山坂 厚さん(76) 爆心地から1.2キロの長崎市大橋町で被爆 =南高北有馬町己=

私の被爆ノート

現在も放射能への不安

2002年10月11日 掲載
山坂 厚
山坂 厚(76) 山坂 厚さん(76) 爆心地から1.2キロの長崎市大橋町で被爆 =南高北有馬町己=

徴用の出向命令が来たのは十七歳の時。生まれた西有家町から長崎市に移り、二週間の養成訓練を受けてから三菱長崎兵器製作所大橋工場に配属された。

原爆が落とされた日は十九歳だった。出勤のため岩川町の下宿を午前六時四十分ごろ出発。松山町付近を通過中に空襲警報が出たがそのまま工場へ急ぎ、平常通り魚雷を造る作業に従事した。警報は十時すぎに解除になった。

十一時ごろ、突然、ものすごい爆発音とともに鉄骨などの下敷きになった。しばらく気を失っていたと思う。何とか落下物からはい出し、夢中で工場の外に逃れた。はだしだったため焼けたコンクリートの道路が熱く、立っていられないほどだった。

工場は鉄骨が曲がりつぶれていた。生き残った工場の技師と出会ったが、顔半分をやけどしていた。技師は持っていた図面を地面にたたきつけ、「これで日本は戦争に負けた」と言ってその場を去った。

以前住んでいた工場寮を同僚と見に行った。寮は無惨にも焼け落ちていた。今思い返すと、通常の火事と違い、高熱で焼けたためか白い灰になっていた。

その後、道ノ尾駅に向かった。途中、数多くの死体を目にした。水を欲しがったり悲鳴を上げたりする人もいたが、何一つしてあげられなかったのが申し訳なかった。

道ノ尾駅から特別列車で諫早駅に向かった。列車を乗り継ぎ、島原市まで行くと空襲警報のため列車が止まった。早く帰りたい一心で線路を歩き、現在の有家町に到着。やっと来た列車に乗って西有家町までたどり着いた。

家に帰ると、両親が驚きながらも大喜びで迎えてくれた。私は油まみれの作業着姿で、はだしのままだった。

被爆後は半年ほど下痢が続き、仕事ができなかった。翌年、筋肉の病気になって右足が曲がり、入院と手術が続いた。肝臓も悪くなった。現在も、放射能の影響を心配しながら生活している。(口加)
<私の願い>
平和な世界を築くため、核兵器の製造と実験をやめてほしい。もう戦争は嫌。米国は現在も戦争をしようとしているが、日本は決して支援すべきでない。平和憲法を守らなくてはならない。

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