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私の被爆ノート

腐敗臭の中 家族探す

2002年9月26日 掲載
浅本 勝子(80) 浅本 勝子さん(80) 原爆投下後2日目に入市被爆 =西彼大瀬戸町多以良外郷=

長崎に原爆が落とされた八月九日は疎開先の西彼野母崎町にいた。長崎市稲佐町から疎開して二日目だった。

そのころ三菱造船、兵器工場、製鋼所に爆弾が落とされ、周囲の女性や子どもたちは次々と疎開していた。わたしも七日の早朝、生後五カ月の子どもを背負い大波止から船で戸町に渡った。その後は海岸線沿いに八里(三十二キロ)歩き、野母崎にはその日の夕方着いた。子どもの腕は帯ずれで真っ赤になっていた。

原爆が落とされたとき、長崎の市街地の空が赤くなったのを覚えている。周囲の人たちは「長崎に爆弾が落ちた」と言っていたが、わたしは幸町のガスタンクが爆発したのではないかと思った。

十一日の早朝、身内の安否を確かめるため長崎市へ船で向かう野母崎の人たちに便乗を頼み、父親、子どもと一緒に長崎市に向かった。大波止か旭町付近に上陸したと思う。

上陸した途端に嫌なにおいが鼻をついた。腐敗臭と物が焼けたにおいだった。電線に馬がぶら下がっていたのを覚えている。三菱製鋼所の溝には黒焦げの死体が折り重なっていた。がれきで歩くのも困難なほどで、自分の家の方角が分からなかった。

ようやく探し当てた稲佐の家は跡形もなく、嫁入り道具で持ってきたミシンの骨組みだけが残っており、ぼうぜんとなった。道で擦れ違う人や防空壕(ごう)の中にいた人たちに義父母の行方を聞いた。義父母は二晩防空壕で寝起きしていたが、その後稲佐の高台にあった親類宅に身を寄せていた。

家に残っていた六歳の義弟が爆死。義母は体半身にひどいやけどを負い、足と手にウジがわいていた。稲佐の上の方の親類宅に身を寄せていたが、治療するにも包帯や薬はなく、アロエをメリケン粉で練ったものを塗り古雑誌を張り付けた。

アロエでの治療を一週間ほど続けた。三菱兵器製作所で働いていた義父は全身にガラス片を浴び、皮膚がごつごつと膨れあがっていた。後で四十七カ所にガラスが入っていたことが分かった。

何とか命を取り留めた義父母は一週間後、佐世保の娘の元に行き、義母は六年後に亡くなった。(大瀬戸)
<私の願い>
結婚して二カ月で夫は召集。子どもができたことも知らず、ビルマ(現ミャンマー)で戦死した。戦争で、人生で一番楽しいはずの時期をなくし、あらゆる悲しみを体験した。戦争は二度と嫌だ。国は非核三原則を守ってほしい。

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