朝長 政子
朝長 政子(72)
朝長 政子さん(72) 爆心地から2.3キロの長崎市大黒町で被爆 =大村市西三城町=

私の被爆ノート

焼け野原の惨状今も

2002年9月19日 掲載
朝長 政子
朝長 政子(72) 朝長 政子さん(72) 爆心地から2.3キロの長崎市大黒町で被爆 =大村市西三城町=

一九四五年八月、長崎女子商業学校四年だった私は、学徒動員で現在の長崎市大黒町にあった日本通運長崎支店で働いていた。三菱の工場でできた製品を、県外に列車で発送する部署に配属され、台帳記入の事務や長崎駅での荷物の積み下ろしなどに従事した。

普段は長崎駅構内の事務所が仕事場だったが、原爆投下前の八月一日に空襲があり、駅構内にも爆弾が落ちた。構内で爆発が起きる危険があるということで、九日は大黒町の支店にいた。

原爆が落ちた時は二階の一室におり、突然、周囲が「ピカッ」と光った。支店の前を走っていた電車が事故でも起こしたかと、とっさに部屋から廊下に出たところに、「ドカン」と大きな爆発があった。窓ガラスが割れ、ほこりがもうもうと舞った。「これは爆弾だ」と思った。

けがはなく、すぐに同僚らと近くの防空ごうに向かったが、駅の近くは危険だとの上司の判断で、蛍茶屋(同市中川)付近の上司宅まで避難した。そのまま一夜を明かしたが、夜になると県庁辺りが赤く燃えていた。

十日、歩いて水の浦(同市水の浦町)の自宅へ戻った。家族のうち母と妹は郊外へ疎開しており、当時は三菱造船所に勤める父と二人暮らし。父は無事だったが、その日、市内に住んでいた親せきが「城山に疎開していた母と妻が見つからない」と泣いて訪れた。父とその親せきとで再度捜したが結局、二人は遺骨も見つからなかった。

その後、疎開していた母も家に戻ったが、市内は危険だと、すぐに一家で母の疎開先に避難することになった。途中、焼け野原の浦上を通った。目と耳をふさいで地面に伏せたり、石垣を上って逃げようとした姿のまま、真っ黒焦げになった人や、ぱんぱんにふくれて死んだ馬など、ひどいありさまが目に焼き付いている。

私は被爆から一年近く体調が優れず、父は体にできものがたくさんできた。五九年、父はがんのため六十六歳で亡くなった。その後ABCC(原爆傷害調査委員会)で遺体が解剖されたので、原爆の影響があったのかもしれない。父の死はとても悲しかった。(大村)
<私の願い>
長崎女子商業学校では原爆で多くの犠牲者が出て、五十回忌まで毎年慰霊祭をした。原爆を体験した者として戦争は絶対に嫌。核兵器の存在は、一歩間違えば恐ろしい事態を招く。亡くなった同級生のためにも平和な世でありたい。

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