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私の被爆ノート

傷治るもケロイド残り…

2002年9月12日 掲載
吉永 正子(71) 吉永 正子さん(71) 爆心地から1.2キロの三菱兵器製作所大橋工場で被爆 =福岡市早良区有田=

当時、私は十四歳で県立長崎高等女学校の三年生。一九四五年五月に学徒動員で長崎市の三菱兵器製作所大橋工場で働くことになり、魚雷の部品にやすりがけをする仕事に従事していた。

あの日もいつもと同じように工場で働いていた。部品が足りなくなったので、外の防空壕(ごう)の中にあった部品を取りに工場の出入り口から一歩出た瞬間、ピカッと光ったと同時に爆風で吹き飛ばされた。何かにたたきつけられ気絶してしまった。目が覚めると、工場は倒壊し辺りは燃え、人が倒れたり逃げ惑っている姿が目に入ってきた。

私自身は希塩酸のかめに打ち付けられ、液体をかぶってしまっているのに気付いた。とにかくみんなと同じ方向に線路に沿って逃げたが、道の途中、倒れている人をどれだけ見ただろうか。気を取られる余裕もなかったが、畑にいた農耕馬が立ったまま真っ黒焦げになって死んでいるむごい光景は今でも忘れられない。

たどり着いたのは住吉のトンネル工場。そこで学校の友達と偶然会い、裸同然だった私にブラウスともんぺを貸してくれた。別の友達と二人で救援列車に乗り大村へ向かい、個人病院で三日間治療を受けた後、長崎市本河内町の自宅に戻った。当時、私は祖母と二人暮らしだったが、帰宅した私の姿を見て祖母は「本当に正子なんだろうか」と言って抱き締めて喜んでくれた。

しかし、次に私を襲ったのは原爆症だった。歯茎からの出血や下痢、高熱が続き、つめの根元が化のうし髪の毛も抜けた。十月には小康状態になったものの、左ももと右のすねのやけどの傷は化のうがひどく、九州大学に入院し治療を受けることにした。福岡にいた母の妹にお世話になり、幸い傷も治った。だが、その後も苦しい日々は続いた。

原爆のせいで私は体が弱く、福岡に移って十年間はいろんな病気にかかった。傷は治ったがケロイドが残り、ミニスカートや水着姿の女性を見ると本当にうらやましかった。肉体的精神的に苦しめられたが、「生きていればきっと楽しいことがある」と信じてきた。私はその後結婚して三人の子供を産み、孫は八人もいる。幸せな生活を送っている。(福岡支社)
<私の願い>
原爆が多くの人の青春や希望を奪い取ってしまった。核兵器は人類絶滅の道具にほかならない。次代を生きる人たちに再び戦争への道を歩まないよう願いながら、被爆体験を語っていきたい。

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