ちょうど三菱兵器製作所から三菱電機の工場に書類を届けに歩いているところだった。空襲警報が鳴り響いた。空を見上げると、B29二機が飛んでいるのが見えた。すると突然、熱風に襲われた。すぐ近くの石垣に立て掛けてあった材木のすき間に潜り込んだ。しかし爆風で材木が体の上に次々に倒れてきた。
体に覆いかぶさった材木を一本ずつはねのけてはい出した。空には真っ黒い煙がもくもくと上がっていた。身を隠そうと防空ごうを見つけたが、人がいっぱいだったので稲佐山の方に逃げた。
周囲の家屋からは次々に火の手が上がり始めた。火の回りは早かった。燃え盛る火をなんとかくぐり抜けていたわたしの手を四、五歳の女の子がつかんだ。女の子は「お母さんを助けて」と助けを求めてきた。引っ張られて行った場所には、腰から下が倒れた家の下敷きになった女性がいた。何とか引きずり出そうとしたが、動かない。そのうち火と煙が迫ってきたのでやむを得ず女の子を連れてその場を逃げた。振り返ると母親は火に包まれていた。女の子は炎をにらむようにじっと見ていた。
女の子を近くの防空ごうに預け、今の竹の久保町の辺りに向かった。今度は畑の方から小さな声が聞こえた。畑には一歳くらいの男の子がうずくまっていた。横にいた母親らしき女性は既に亡くなっていた。男の子は泣き声かうめき声か分からない声を発していた。母親の遺体を横に向け、乳に男の子の口を当てた。男の子は母乳を一口か二口飲んだだろうか、すぐにぐったりして動かなくなった。わたしは男の子を母親の横に寝かせ、焼け残ったふろしきをかぶせてその場を去った。
家野町の自宅近くにはたくさんのけが人が集まっていた。「タミちゃん」。わたしの名前を呼ぶ声の方を振り向いたが、全身にやけどを負い誰か分からなかった。「隣の○○よ」。変わり果てた姿にびっくりした。けが人を汽車で時津や長与、大村の診療所に運ぶと聞き、汽車に乗せるのを手伝った。全員を乗せ終えたころにはわたしの服は血だらけ、手には人の皮がいっぱい付いていた。後から聞いた話だが、大半の人は汽車の中で亡くなったらしい。家にたどり着いた時、時計の針は午後六時を回っていた。
<私の願い>
被爆者も年を取っていく。子どもや若い人にできるだけ原爆の悲惨さ、平和の尊さを伝えたい。私たちの被爆体験を若者たちがしっかり受け止め、平和な世の中をつくってくれることを祈る。