吉野アイ子
吉野アイ子(73)
吉野アイ子さん(73) 爆心地から約1キロの油木町で被爆 =長崎市向町=

私の被爆ノート

顔に鉄の棒突き刺さる

2002年8月29日 掲載
吉野アイ子
吉野アイ子(73) 吉野アイ子さん(73) 爆心地から約1キロの油木町で被爆 =長崎市向町=

長崎市油木町にあった市立商業高校の兵器工場で働いていた。配属され一週間目。窓際の十人ほどが「空から何か落ちてきよる」と言った。私も立ち上がった。瞬間、ものすごい光を見た。

何分たっただろう。窓際の人は誰一人いなかった。逃げようと廊下に出た。爆発が三回あった。最後の爆風で吹き飛ばされ、気を失った。

焦げ臭いにおいと熱さで目を覚ました。二つに束ねていた髪が燃え、一つはなくなっていた。全身ひどいやけどだった。

近くにいた若者が「信じられない」という目で私を見ていた。

三角にとがった鉄の棒が左の耳の下から突き刺さり、先端が口から出ていた。引っ張っても抜けず、若者三人に手伝ってもらった。棒は約二十センチ。歯茎と三本の歯が付いていた。ほおはぱっくりと開いていた。

通りすがりの男性が助けてくれた。言葉がたどたどしかったから、韓国の人だろう。

男性は、私を背負って汽車がいるところまで行き、私を乗せようと頼んでくれたが、「助かりそうな人だけだ」と断られた。私は、もう死ぬのだ、と思った。来た道を戻り、防空ごうで休んだ。男性には名前も聞かなかった。会えることなら、お礼を言いたい。

父の実家の式見から、漁師の人たちが助けに来てくれた。途中の山の中で、ようやく母と再会できた。「女の子だから、お化けのようになっちゃいかん」。母は十六歳の娘の傷口を一生懸命、押さえてくれた。

「宮崎(旧姓)アイ子さんは出頭してください」。半年ほどして、米国のジープがきた。軍事関係の仕事に従事していたからだろうと思った。母は泣きだした。新大工町にあった建物の二階に連れて行かれた。二十人ぐらいのけが人がいた。

誰かが「注射を打たれて殺される」とつぶやいた。建物の横にあった電柱に渡り、逃げた。後から日米共同の被爆者調査だと知った。

稲佐町の自宅は全壊した。比較的裕福な家庭だったが、一発の原爆が生活を変え、貧しくなった。数年後、式見で漁師をしていた主人と結婚。「親も弟も連れて来い」という言葉が、ほんとうにうれしかった。
<私の願い>
核兵器を使おうとしている人は、それが結局、自分にも跳ね返り、死んでしまうということを認識してほしい。核兵器は絶対に使ってはならない。

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