原爆が投下された一九四五年当時、長崎市大橋町にあった三菱兵器製作所大橋工場で報国隊員として働いていた。八月九日は、通勤途中に警戒警報が鳴ったので自宅に戻り母の手伝いをしていた。
午前十一時二分、金比羅山の方が「ピカーッ」と光った。同時にものすごい爆風が吹き、屋根は吹き飛び、壁の一部が崩れ落ちた。母が「早く押し入れに入りなさい」と叫んだので、妹たちと押し入れに駆け込んだ。母は何が起こったのか分からず、心配そうにうろうろしていた。
しばらくして押し入れから出ると、浦上方面から山越えしてきた顔中血だらけの人や、やけどで皮膚がはがれた人たちが金比羅山から下ってきた。「助けてー」「助けてー」と言っていたが、どうすることもできなかった。
夕方、父が慌てた様子で仕事先から帰宅。「浦上に広島と同じ爆弾が落とされたらしい」と教えてくれた。それを聞き、三菱長崎製鋼所(茂里町)に勤めていた姉二人は「もう駄目だろう」と思った。
その矢先、母が玄関付近で、「お嬢さん二人は助かっておられます」と白墨で書かれた板切れを見つけた。父と母がすぐリヤカーを借りて迎えに行こうとしたが、日が暮れかけていたためこの日は断念した。
翌日、父母と三人で製鋼所へ向かった。長崎駅を過ぎると、この世のものとは思えない光景が広がっていた。焼け崩れた建物、燃え続ける電柱、黒焦げで性別もはっきりしない無数の死体。黒焦げの馬…。まさに生き地獄だった。
やっとの思いで製鋼所に着くと、姉二人はけがを負いながらも生きていた。二人の姿を見た瞬間、ほっとして力が抜けたのを覚えている。父母と三人で姉二人をリヤカーに乗せ家路を急いだ。涙が止まらなかった。
あの日、同じ工場で働いていた同級生の多くが亡くなった。私が味わった恐怖と絶望感は、五十七年以上たった今も忘れられない。
<私の願い>
平和な世の中になったが、夏がくるたび五十七年前の惨状を思い出し胸が痛む。現在の平和は多くの犠牲者の上にあることを世界の人々に伝えていく必要がある。