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私の被爆ノート

負傷者搬送見るに堪えず

2002年8月15日 掲載
山口 正則(73) 山口 正則さん(73) 8月10日から数日間諫早市内で救護活動に従事 =諫早市川床町=

県立農学校(現在、県立諫早農業高校)の二年生だった。あの日は学校から少し離れた農場で、食糧増産のための農作業に従事していた。午前十時五十分ごろ、空襲警報が鳴り、農場の防空壕(ごう)に避難した。

同十一時二分は壕の奥の方にいたためか、何も気付かなかった。正午前に警報が解除され、壕の外に出た。

晴れていた空が真っ黒になり、太陽が見えなくなっていた。長崎の方向から黒い雲が見えた。和紙が燃え尽きたような灰が何枚も空からヒラヒラと落ちてきた。長崎で官公庁か何か大きな建物に爆弾が落とされ、火災が起きていると思った。

午後二時ごろ、学校に戻った。「長崎に大きな爆弾が落とされ、長崎は全滅してしまったそうだ」。そんな話が広がっていた。

翌十日から数日間、諫早まで搬送されてきた被爆者の救護活動に従事した。現在の県立諫早商業高校付近に、長崎からトラックで被爆者が次々と運ばれてきた。重傷の被爆者らを、諫早駅近くにあった海軍病院まで担架で運ぶのが仕事。一日に四、五回往復して被爆者を届けた。

「水をくれ」。搬送を待つ人に求められたが、水を与えたら危ないと聞いていたのでやらなかった。全身にやけどを負った人、服が焦げた人…。見るに堪えない状況の人ばかりだった。そんな人たちと直接言葉を交わした記憶はない。

終戦前のある日、学校の指示で同級生約四十人と一緒に、被災地の後片付けのため長崎市に向かった。現在の道ノ尾駅付近で汽車を降り、その後は徒歩で長崎大学病院近くまで行った。

辺りは一面の焼け野原で、建物はなくなっていた。道路などの後片付けが役目だったと思うが、あの惨状で何をしたのか思い出せない。「原子爆弾が落とされたので、草も木ももう生えない」という話を聞いた。今、その様子を思い出すと、核兵器は本当に恐ろしいとあらためて思う。

五年前から、県被爆者手帳友の会諫早北高連合会の小栗支部長を務めている。八月九日をはじめ一年間に五、六回会合をしているが、被爆者は高齢となり年々会員が減少しているのが寂しい。(諫早)
<私の願い>
核兵器は二度と使ってはならない。原爆や水爆が使用されると、街は全滅してしまう。本当に恐ろしい。被爆者は年々減っており、核廃絶の運動を被爆二世らに引き継いでいかなければならない。

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