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私の被爆ノート

血染めの服で戻った妹

2002年8月9日 掲載
松尾 チヨ(79) 松尾 チヨさん(79) 爆心地から2.5キロの自宅近くで被爆 =長崎市西山4丁目=

その日は午前十時前に家を出て近くの田んぼにいた。しゃがんで草を摘んでいると突然ピカッと光り、ごう音とともに目の前の家の屋根瓦が飛ばされていった。

その瞬間に、わたしも爆風で飛ばされた。十メートルぐらいだろうか。泥だらけになったが、水田だったので幸いけがはなかった。家に置いてきた生後二カ月になる子どもが心配になり、急いで家に戻った。

散乱した家屋のがれきを避けながら家にたどり着いた。子どもは親類が連れて防空ごうに避難していたので無事だった。家は天井から畳まで吹き飛ばされていた。土壁はほとんど崩れていた。寝る場所がないので家の前にあった牛小屋で夜を明かした。

自宅の前の道には、浦上方面から逃げてきた人がたくさんやってきた。ほとんどが裸とはだし。やけどがひどかった。口々に「水をください」と言っていたが、祖父は「水をやったら死ぬから駄目だ」と断っていた。井戸には紫色の油が浮かんでいたので、飲ませる水もなかった。

数日後、原爆が落ちてから消息が分からなかった妹について「道の尾駅の裏の畑で赤い洋服を着て寝ていた」と聞いた。妹は高校生で三菱兵器工場に学徒動員で通っていた。赤い洋服に見覚えはなかったが、確認に向かう準備をしていたところ、よその人に連れられて戻ってきた。

赤い洋服とは血に染まった学生服だった。服を脱がすと背中一面にガラスの破片が刺さっていた。それから一週間ほどしたある日、妹が畳の上を転がりながら「歯が痛い」と大声で泣いている。しかし歯は一本もなかった。すぐに病院に連れていった。

病院の廊下には死んだ人を約十人ずつ重ねていた。「うちの妹もこげんなっとかね」と感じた。毎日おかゆを炊いて妹が入院する病室に届けた。ほかの入院患者にも分けてあげた。しかしその顔触れは行くたびに変わった。

数日して妹が黒い血の固まりを下血した。妹には「治ったよ」と言って家に連れて帰った。柿の葉と石をせんじて飲ませた。妹はそれを飲んで安心したように死んでいった。家族だけで集まり葬式をした。
<私の願い>
二度とこんな悲惨な戦争がないように願う。世界各地で起きる戦争やテロを見るたびに自分の体験を思い出す。戦争は男性だけでなく、家族や子どもを巻き込むことを忘れてはいけない。

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