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私の被爆ノート

「足切って」と若い女性

2002年8月1日 掲載
鍛冶梁久米一(72) 鍛冶梁久米一さん(72) 爆心地から2.3キロの住吉町で被爆 =福江市松山町=

尋常高等小学校を卒業して郷里の離島・椛島(現在の福江市)を出て、一九四〇年に三菱長崎工業青年学校に入学。西彼長与町の三菱兵器製作所堂崎工場に学徒動員され、魚雷発射場魚雷発射係(運搬担当)として働いていた。

当時十五歳。八月九日は魚雷運搬のため、朝から長崎市の住吉トンネル工場へ出勤。魚雷をトラックに積み込むための作業に当たった。午前十時五十分ごろ、積み込みを終了。工場内の第一機械工場に立ち寄り、魚雷内部の機械点検をしていた。そのとき、トンネル出入り口から爆風を感じた。トンネル内にいたため私に外傷はなかった。何が起こったか分からず、外に出て初めて大惨事を目の当たりにした。

ひとまずその日は、長崎市飽の浦町の親類の家に向かった。市街地の建物は全壊状態で道路がはっきりせず、方向が分からなかった。川の中には多数の死体が浮き、街のあちこちから「助けてくれ」「水をくれ」などと叫び声が聞こえた。橋の欄干にはお年寄りが座ったままの姿で死亡。その人の腕時計の針は十一時すぎを示して止まっていた。もんぺ、ずきん姿の学徒とみられる若い女性は、がれきに片足をはさまれてもがき苦しんでいた。「足を切ってください」。なすすべがなかった。地獄のような光景は一生忘れられない。

やっとの思いで親類宅に着いた。一晩中、燃え続け火の海と化した市街地を米軍偵察機が悠々と低空飛行するのが見えた。親類一同、その夜は一睡もできなかった。翌十日、堂崎工場へ帰任するため親類宅を出た。街には黒焦げの死体が散乱、悲惨な光景だった。

十一日、堂崎工場の工員、学徒ら約二百人で救護隊が結成され、大橋工場へ徒歩で向かった。重傷者の救護、遺体の収容は約二週間続いた。破壊された建物の材木を拾って空き地に積み上げ、遺体を夜通し火葬した。お骨は小箱に入れて、身元判明分は家族、親類などに手渡した。

戦後、郷里で漁業に従事。五六年県警に採用され、警備艇の機関長を長年務めた。妻(73)も学徒で長崎市内の軍需工場で被爆。夫婦ともども原爆の悲惨さ、愚かさを痛感している。
<私の願い>
被爆の惨状を思い出すたびに胸が締め付けられる。核兵器使用は絶対あってはならない。再び使われれば、人類は滅びる。原爆投下を戦争の早期終結のためだったとする米国の論理は納得できない。被爆者への補償は米国もすべきと思う。

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