当時、三菱兵器製作所厚生課の出先機関だった「精米所」に勤めていて、毎日、友人らと五人で製作所に運ばれる米をといだり、といだ米を袋詰めする作業をしていた。
長崎師範学校予科二年の十七歳。あの日は、午前八時半ごろに出勤。警戒警報を聞いたのは同十時ごろだった。その十分後ぐらいに空襲警報が鳴ったので、全員、近くの山の防空ごうに避難した。
警報が解除されて精米所に戻り、仕事を再開しようとした矢先、B29爆撃機のごう音が聞こえた。小窓から松山町上空を見上げた直後にものすごい光を浴び、顔の肉をえぐり取られるような激しい痛みを感じた。
慌てて伏せて、目と耳を両手で押さえた後、ドカーンと爆発音が鳴った。震動で地面が激しく揺れた。
目を開けると、高く積まれた米俵の上に屋根が崩れ落ちていて、運良く直撃を免れた。外に出てみると、ものすごいほこりで周りの景色がよく見えなかった。
無事だった友人と三人で避難しようと大橋町方面に歩いたが、浦上川そばにあったガスタンクがぺしゃんこで、至る所から黒煙が上がるなど、町の惨状はすさまじかった。南には歩けないと思い、大橋町の交差点で引き返し、師範学校に向かった。
学校に着くと先生から「長与小学校に避難しなさい」と言われた。歩いて同校にたどり着いたのは夕方。顔が痛くて口をうまく開けられず、配給されたにぎり飯を食べるのがつらかった。
翌朝、手熊の自宅に帰るために出発した。大橋町付近を歩いていたら、空襲警報が聞こえたので、すぐに近くの防空ごうに避難した。中には十数人が倒れていて「水をください…」という悲痛な声を聞いた。怖くなって走って逃げた。
無事にその日の夕方に帰宅したが、しばらく顔のやけどがひどく、膿(う)んだ。隣に住んでいた医者に薬をもらったりして治療した。
あれから長年、雷の音が聞こえると怖くなった。しばらくあの日のことは話したくなかったが、その後、三十七年間、中学校の教壇に立ち、授業で被爆の惨状を子どもたちに聞かせていた。
<私の願い>
核兵器を使うことは人類の破滅につながる。時代の変遷に伴い、戦争に対しての認識が変わりつつあるが、戦争はどういう理由があろうとも反対だ。平和を保ち続けるように努力していきたい。