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私の被爆ノート

黒焦げの死体 地獄絵図

2002年7月18日 掲載
前田 宏(70) 前田 宏さん(70) 爆心地から3.4キロの千馬町(現在の出島町)で被爆 =佐世保市中里町=

長崎市千馬町(現在の出島町)の電気工事局に学徒動員され、電気関係の仕事をしていた。当時、長崎工業学校電気科二年で、十四歳。

八月九日は快晴で暑い日だった。空襲警報のサイレンが鳴り、生徒は自宅に帰るように指示があった。しばらくして空襲警報が解除されたので、級友と工事局裏の中島川で泳いで遊んでいた。すると、突然聞き慣れない「キーン」という飛行機の音がしたかと思うと、ピカッーと光が走り、空一面が真っ赤になり「ドーン」というものすごい音がした。

とっさに水の中に潜り、数秒後に顔を上げてみると、空は真っ暗になり猛烈な爆風で工事局、県庁、民家が壊れていた。何が起こったのか分からず恐ろしくなり、自宅に帰ろうとしたが、脱いだ衣服は爆風で吹き飛ばされてなくなっていた。

帰る途中、浦上の方から頭や手足から血を流し、けがをした人が続々と避難してきた。外浦町(現在の万才町・江戸町)の自宅は爆風でめちゃくちゃに壊れていた。夕方近くになって県庁付近から火の手が上がり、町内の人と田上の山に避難した。翌朝、帰ってみると自宅周辺はすべてが灰になりぼうぜんとするばかりだった。

その後、築町の公設市場の一階で避難生活が始まった。少しずつ情報が入り、浦上の爆心地は全滅し、西山の方からしか入れないということだった。

二、三日して近所の長崎医科大(現在の長崎大医学部)の学生が行方不明というので、町内の人と一緒に坂本町の医科大へ捜索に行った。そこは至る所に黒焦げの死体が転がり、異臭が漂い、地獄絵図そのものだった。

築町などの広場には、次から次に死体がリヤカーで運ばれてきた。大人も子どもも真っ裸だった。死体を焼くのを手伝ったが、あのにおいは今も忘れられない。

私は爆風を直接浴びなかったので死なずに済んだが、被爆した級友は二年前、白血病で亡くなった。私もいつ病気が出てくるか不安な日々を過ごしている。(佐世保)
<私の願い>
核兵器は必要のないもの。一度核戦争を起こすと互いに滅んでしまう。被爆者として子や孫の世代が苦しまないでいいように、核廃絶の旗を掲げ、話し合いで解決する平和な世界の実現を願っている。

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