いつものことではあったが、あの日も空襲警報のサイレンが鳴り響いたので作業の手を止めた。二十一歳の私は、女子挺身(ていしん)隊として三菱兵器製作所大橋工場で魚雷の型作りに従事していた。みんなと一緒に住吉トンネル工場へと避難したが、やがて解除のサイレンが鳴り、工場へ帰った。
ほっとして仕事に戻り、間もなくすると、ジリジリと太陽が照り付ける真夏日が突然、夕暮れ時のように薄暗くなった。次の瞬間、光の棒がものすごい勢いでシューッと迫った。工場の屋根が粉々になって体の上に落ち、私は意識を失った。
どれくらい時間が過ぎただろう。何が起きたか分からないまま、立ち上がってみんなの後に付いて走りだした。避難した先は、工場の裏手の十字架山(現丸善団地付近)で、既に多くの人がうめきながら横たわっていた。
山手から見ると、町は火の海。家屋が焼け落ちるバリバリという音は、耳をつんざくほど不気味に聞こえた。周囲では、あちこちで人々が「水をください」と叫びながら、次々と息絶えていった。
避難先には工場長の山口貞市さんもおり、布のような物で頭のけがを覆っていた。それでも、焼け続ける工場へと何度も往復しているようだ。工場の食堂に散乱していたのを集めたのか、山口さんは昼食用のパンをあちこちで配っていた。私は寝込んだままで、頭にけがをしているのを、山の中で人に言われて初めて知った。
翌日昼ごろ、安全な場所へ移ろうと、動ける人だけ山を下ることになり、私も加わった。工場裏の二郷橋まで来たとき、悪夢のような光景が目に飛び込んできた。あっちもこっちも動けない人、人、人。死体とうめき声の地獄絵図だった。
浦上の線路まで小走りで向かった。倒れて身動きもできない人がうめき声を上げている。死体が折り重なる上をまたがって、必死で線路にたどり着き、汽車に押し込まれた。動きだした汽車から見ると、山の高い所はまだ火の海だった。
長崎を後にして、佐世保の早岐の小学校で救援隊の人にけがの治療をしていただいた。早岐の皆さんの温かい心は生涯忘れられない。
<私の願い>
生き地獄を経験した者として、次世代の人たちに、あのような体験を二度としてほしくないと思う。誰もが平和に生活できるよう、核兵器や戦争のない世界になることを願ってやまない。